ひとりの教員としての学び方! どこで何を?

執筆者: 渡辺 道治

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教職は、成果を数量化しにくい仕事です。

サラリーマンのように営業成績がグラフ化されるわけではありませんし、プロ野球選手のようにホームラン数や打率が数字で示されるわけでもありません。

しかし、この教職という仕事において必要な知識や技能は、確かに存在します。それらの中には、「必須」といえるレベルのものもあるでしょう。営業職には「交渉力」が必要で、スラッガーには「長打力」が必要であるように、教職においても重要度の高い力が確かに存在します。

一方そうした技能や知識をどの程度まで身につけ、磨いていけばいいかという「物差し」は、ほとんど存在しないといえます。なぜならば、先にも書いた通り教職は成果を数量化しにくい仕事だからです。「月に○件の契約を取ることが目標」や「3割バッターを目指そう」といったわかりやすい指標がつくりにくい仕事なのです。

だからこそ、教職において研鑽を積んでいく上においては、明確な目的意識や一定の見通しをもつことが大切です。

どんな力が必須なのかということを見極め、その上で現時点の自分にはどんな力を磨くことが必要かいうことを確定し、意図的に学びを積み重ねていくということです。何事においてもそうですが、闇雲な努力よりも見通しをもった努力の方が、意欲の上でも効果の上でも得るものは大きくなります。本稿が、一人の教員としてどのように学びを積み重ねていけばよいのか、そのストーリーの紡ぎ方を考えるきっかけになれば幸いです。

教職は専門職です。専門とは、限られたある分野を集中的に研究・担当することです。

たとえば、小学校教員でいうならば、「6~12歳の子にわかりやすく勉強を教える」という点において専門職であるといえます。

もちろん、「わかりやすく勉強を教える」以外にも山ほどやることはありますが、この職業の仕事の中心を突き詰めるならばそれはやはり「勉強を教える」ことなのです。

そして、「わかりやすく勉強を教える」ためには、集団を組織し統率していく必要があることから「学級経営」という要素が重要になったり、学習指導だけでは子どもたちの健全な育成に繋がりにくいことから「生徒指導」という観点も必要になってくるということです。

小学校で授業をする先生

ちなみに、他の専門職と呼ばれる仕事においては、その道に携わっていない人が意見をする幕はほとんど見当たりません。医師であれ、大工であれ、鍛冶職人であれ、その道に携わる方々の判断や見識に基本的に素人は口をはさむ余地はほとんど無いといえるでしょう。それは、専門職と呼ばれる方々が、豊富な知識や技術、あるいは豊かな経験による確かな裏付けや根拠をもっているからです。

一方で、教育分野において日本は「一億総評論家」状態だといわれています。これは、多くの有識者が指摘していることです。理想の教育について、一家言をもっている人は日本中にいます。

「こういう教育こそが望ましい」「教育はこうあるべきだ」。それは、大工の棟梁が言っても、文部科学省の官僚が言っても、町内会長さんが言っても、どれももっともらしく聞こえます。

ただし、そこで「根拠や裏付け」が語られることは非常に少ないです。日本の教育界においては、このことが大きな問題点として指摘されています。医療の例と比べれば、それがどれ程危ういことかがわかります。

つまり、専門職としての教職を名乗るならば、豊富な知識や技術、確かな根拠や裏付けを示してこそ初めて成り立つ仕事であるともいえるのです。

だからこそ、我々教職員は専門性を高めていく必要があります。

たとえば、次の質問にどの程度応えることができるか、一度試してみて下さい。

「漢字を中々覚えられない子がいるときは、どうやって指導すればいいですか」

「逆上がりの練習のポイントを教えてください」

「割り算のひっ算の計算ミスは、どうすれば減らせますか」

「授業中に立ち歩く子たちには、どのように対応すればいいですか」

「教室の掲示物を配置する際の留意点には、たとえば何がありますか」

子どもに教える先生

すべての質問に、根拠や裏付けを伴わせながら、いくつかの解答を示せたとするならば、それは「教職の専門性を一定程度有している」といえるでしょう。反対に、ほとんどの質問に対して明確な答えができないならば、専門性がまだ低い状態にあるとみることができます。

つまり、局面を限定した上で具体的な答えが示せるかどうかを試してみると、曖昧だった教職としての専門性の度合いがわかってくるということです。そういった意味で、日々の仕事は学びの宝庫であるといえます。

一つひとつの局面を通して、「先行実践やエビデンスは何か」「どのような指導が有効なのか」を考え、調べていくことで、着実に専門性は高まっていくでしょう。

その際に、学んだことや体得したことは、いつでも取り出せるようにストックしていくことをおススメします。一度得た情報や学んだ内容を使いこなせるようになるまでには、相応の時間が必要です。必要なときに取り出し、見返していけるように、体系化して残していくことで、知識や技術が定着し技能化されていくでしょう。

そして、OJTで様々な局面の課題を解決することと合わせ、大局的な視点で教職という仕事を捉えることも専門性を高める上では有効です。たとえば、「教職において大切な3つの力とは何か」のように、よりよい仕事を行う上で中核となる力については、いずれかの機会に確定しておくとよいでしょう。

確定するからこそ目標がハッキリとし、それを磨き続けることができるようになります。そして、ゴールを明確にするからこそ、現時点の自分に何が足りないかも具体的に見えてくるはずです。

たとえば、私は初任者の頃、「伝える力」が自分には圧倒的に不足していることを幾度も感じていました。褒め言葉のバリエーションも少なかったですし、教材の価値を見抜く眼力にも欠けていましたし、子どもたちに届く語りをすることも中々上手くできない現実がありました。

だからこそ、意図的に伝える力を磨いていこうと努力をしました。

具体的には、学級通信という一つのツールを活用して、自分自身の伝える力を磨く努力を行いました。1年目に100号、2年目はその倍の200号、3年目はその倍の400号というように、具体的な数字のゴールを設定し、伝える力を高めていこうと考えたわけです。当初は、1枚の通信を書くのに数時間以上かかっていましたが、一連の意図的な努力を積んだことによって、言葉を紡ぐ速度は飛躍的に向上しました。

作業をする先生

さらに、誉め言葉のバリエーションや文章の表現方法が劇的に増えたり、保護者の方々から何通もの感想のお便りが届くようにもなりました。初任の頃と、3年目の頃とでは、伝える力において歴然たるちがいが生まれました。こうした数字の目標を立てることは実にシンプルな取り組みでしたが、その中で得た気づきや学びは極めて大きいものだったといえます(詳しくは拙著『汗かけ恥かけ文をかけ。』の中に収録しました)。

「伝える力」以外にも、自分に足りない力を見極め、意図的に研鑽を積んでいこうとする取り組みを私はこれまで続けてきました。そのようにして、日々の仕事の中で意図的に磨こう高めようと努力してきた足跡が、今の私の教師人生を確かに支えてくれています。

もちろん、これは一つの例にすぎません。足りない力は人によってちがいますし、それを磨いていく方法も自分に合ったものを選択していくといいでしょう。

成果を図るわかりやすい物差しが少ない教職だからこそ、自分自身でその具体的な指標を創り出し、日々の仕事の中でそれを磨いていくことが大切なのだと思います。