子どもをムキにさせる授業を

執筆者: 田中 博史・盛山 隆雄

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第2回目は、授業の達人、田中先生と盛山先生による授業づくりの秘訣を少しだけ紹介します。若い先生にとってまずはどんな授業を心がけるべきか。明日からの授業づくりにお役立てください(『子どものために教師ができること』からの抜粋です)。

盛山:今日は、授業づくりをテーマに話をしていければと思っています。


田中:盛山名人と授業の話をするなんて恐れ多いです(笑)


盛山:いやいや、それはこちらの台詞です(笑)
前回、田中先生が筑波に来られた頃の話を少し伺いましたが、私も赴任当初は大変だった記憶があります。


田中:君はサラブレッドだったけどね。最初から馴染んでたよ。


盛山:いやいや……。もちろん、全国算数授業研究会などに参加していたので、筑波小算数部がどんな感じかはなんとなくわかっていました。
でも、実際に来てみると野武士感は想像以上でしたね(笑)
その当時も授業を参観に来る研修生(他校の教師)は多くいました。
教室の後ろの掲示板にいろいろ貼っていたら、ある先生から「おまえは、参観者に後ろを向かせる授業をしているのか」と言われたことがあります。


田中:その先生にその台詞を言ったのは、昔の私だけどね(笑)
でも、私が言ったのは研究会前日のこと。
参観している先生方が掲示物の方に目をやるということは授業がつまらないときだからね(笑)


盛山:そうだったんですね(笑)
あのときは、すごいところに来てしまったと思いましたよ。
田中先生からもいろいろ言われた記憶があります。

盛山 隆雄先生

田中:何か言ったっけ?


盛山:田中先生は最初の頃、淡々と自分の仕事をされていて、特に言葉かけはありませんでした。
なんとなく見ているよ、くらいな感じです。
その後、五月の公開講座で私が初めて1年生の子どもたちと授業をしたとき、私はちょっと失敗したんです。
カードに数字を書いて、半数の子たちに見せて、残りの子たちに言葉や式で答えを伝えるという流れだったのですが、全然大した授業ができませんでした。
でも、その授業を見ていた田中先生は、懇親会のときに「おまえは、こんな浅はかなことができるんだな」とおっしゃったんです。
いまでも覚えていますが、それは褒め言葉でした。
どうやら、私がもっと学者がやるような上品な授業をすると思われていたそうで、「こんなことができるんだな」と褒めてもらえたのです。


田中:実は「浅はかなこと」をするって、なかなか勇気が要るんだよ。
この前も若い先生たちの授業の相談を受けましたが、みんな最初からかっこつけてやろうとする。
本も読んで教材も勉強して、授業の流れも綿密に考えているのだけど、でもそれは既に誰かがやっている授業と変わらないわけです。
であれば、若いからこそできる「浅はかなこと」にもっと挑戦した方がいいとアドバイスしました。

田中 博史先生

盛山:昔から先生はよく「まずは浅はかなことをやれ」と言っていましたね。


田中:まずは自分で考えたこと、ベテランから見たら一見浅はかに見えるかもしれないけど、自分でちゃんと考えたことを試す勇気をもて、という意味なんですけどね。


盛山:大切なことは、自分の頭で考えて実行することですね。
新しい発想は、自力で考えることからしか生まれません。
目の前の子どもを頭に思い浮かべて、自分で教材研究をして挑戦する。
先生に「浅はかなこと」と言って褒められたことが私の出発点なのです。
私が授業のことで一つ思ったのが、田中先生の価値観。
どういう授業をいい授業と思っているかが最初はわからなかったのです。
筑波小に赴任した当初、田中先生は私が失敗したと思う授業のときは「おまえ、あそこでこうやっておけばすごくよかったのにな」とプラスに捉えてくれていて、私がうまくいったと思うときは逆にすごく叱られたりすることがありました。


田中:天下の盛山先生を叱ったりはしません(笑)


盛山:でも、最初は本当にわからなかったんです。
一番典型的なのは、わり算のある授業だったのですが、子どもたちが3÷3か3÷1かで議論していたのです。
そこで私は、なぜ子どもたちはこんなところで混乱しているんだとテンパっているわけです。
それで授業が終わった後に、田中先生がすぐにやってきて「これは最高だったな! 混乱していることに価値があった!」とおっしゃったんです。
一人の子がムキになって説明していて、私はほとんど対応できなかったのですが、田中先生は「あの子どもの迫力がいいんだ」と。
根本的に先生は、子どもたちが本気になって夢中になっているシーンをよしとしているんですよね。
それにプラスして、数学的に価値があることを見抜くのがすごかった。
本質を見ることを教えてくださいましたね。


田中:本気になったり、ムキになるということは、何か理由があるわけでしょう。
単純な形式に従うだけではなくて、その本人の中にそう思いたくなる理由があるわけです。
それでお互いがぶつかっているわけですから。


盛山:ぶつかっていました。
あのときの授業の光景は今でも覚えています。


田中:訴えたいものがそこにあるときは、迫力があるでしょう。


盛山:そうですね。子どもの本気はある意味、美しさを感じるほどです。

田中:その迫力のある子どもの状態は、その子が今一番話題にしてほしいこと、解決してほしいことだから、ここで話をすることに価値があるでしょう。
そう考えると、授業づくりもそして実は保護者からの相談も全部同じなんです。


盛山:本当にそうなんですよね。


田中:これは宝ですよ。
彼らの中に理由がないぶつかり合いは、意味がないですけどね。
「なんでそう思う?」という問いに対して、「たまたまそう思ったから」という程度じゃないわけです。
引き下がらないということは。
だから、私はそういった場面が早く起きないかなと、いつも思っています。
盛山先生は割とそこは楽しめていると思いますが、多くの先生方はそこから逃げてしまいがちです。


盛山:楽しめないんでしょうね。
でも、その気持ちもわからないわけではありません。
ねらいとは異なるところで盛り上がることもあります。
そのとき、子どもに寄り添うか、それとも切るかを判断しなければなりません。
大抵の場合、付き合えないのだと思います。


田中:そうですね。
多くの方はなかなかそこに踏み込もうとしないかな。


盛山:もうまずいと思ってしまいますからね。


田中:私なんて、大人相手の講演会とかでも毎回わなを仕掛けています(笑)


盛山:逆に、トラブルを起こそうとしているんですね。


田中:授業でも本当は早くトラブルを起こしたい。
もちろん一番ゆとりがあるのは、意図したところで起きるのがいい。
だから、よくわなを仕掛けているけど、わなを通過してしまうときがあるんです。
ここもポイント。
そこではないと思ったら、もう私はその仕掛けは諦めます。
よく「先生、あんなに準備しているのに使わないんですか」とか言われますけど、使う必要がなければ全く気になりません。
そして全然関係のないところで事件が起きたりします。


盛山:起きますね。そのときが授業の分かれ目です。


田中:「あ、こっちなんだ」と思って(笑)


盛山:即座にそこに付き合って乗り越えて、授業のねらいを深めていくという感じですか。


田中:その発想も私は変えた方がいいと思っています。
例えば今、子どもたちを連れていきたいところ(授業のめあて)があったとします。
だけど、意図しないところで事件が起きたら行けなかったりするかもしれません。
今日は山小屋に泊まるはずだったけど、途中で雨が降り、霧が出たら終着点を変えなきゃ駄目でしょう。
そういうふうに思えるめあてにしておくことが大切だと思います。


(中略)


一般にはめあてがすごく狭いのです。
しかも途中の通過点がいくつもある。
私は、これは筑波の先輩だった正木孝昌先生と一緒にいて学んだことですが、授業のめあては一言で言えるように「大きく」「広く」構えています。

盛山:大きくもっているんですか。
私はここに来るまでに、いくつかのめあてがあって、今日はここまででいいとか、そうではなくてこちらでいい、というふうにもっているのかと思っていました。


田中:そういう捉え方もありますが、私はこの道筋が細かすぎるのが駄目だと思ってます。
もちろん、準備はしていいけど「要するに、ここに行けばいい」と思うようにしているんです。


盛山:広く取っているんですね。


田中:「今日の授業は何がやりたいんだ。一言で言ってみろ」と言われて何が言えるか。
先輩の正木先生とは、よく廊下ですれ違ったときに、「おまえ今日は何をやるんだ」「今日はまずこういうことをやってそれから……」「じゃあ、うまくいかないねと」「なんで?」というようなやりとりを楽しんでいました。
つまり、この過程の説明が長いと駄目なんです。そこで、「今日は要するに『そろえる』だけだよ」と言えたら、広めに待つことができるわけです。


盛山:それは単元的なめあてでなく一本の授業内で、ですよね。


田中:ええ。やっぱり45分の中でのことで考えています。


盛山:そう考えると、「見方・考え方」なんですね。


田中:なるほど。
「そろえるとは何か」とか、「今日は単位の考えが出ればOK」と構えるのは見方・考え方に絞っていると考えることができるね。


盛山:広く捉えていれば予期せぬことが起きても対応が楽になりますね。

田中:子どもが何か違うことを言っているように聞こえても、やろうとしていることは一緒だと思えるようになる。
だから「めあて」「まとめ」を強調される方の中には「めあてを絞る」という言葉を間違って捉えている人が多いように思います。


盛山:狭く捉えているとずれると、それだけでビビってしまいますね。
改めて「めあてを絞る」とは、子どもがこういう見方ができればよいとか、こういう考え方ができればよいといった見方・考え方を絞るという意味ですね。
極端に言うと、問題解決ができなくても、ねらっている見方・考え方はできていることがあります。
見方はあるけれども、途中の計算等の処理が間違っていることもあるからです。


田中:そうです。
だから、めあてを大きく、広くもつことは自分にゆとりが生まれるようになります。

田中 博史

「授業・人」塾代表、学校図書教科書監修委員。
1958年山口県生まれ。元筑波大学附属小学校副校長、元全国算数授業研究会会長。主な活動は、教員研修や子育て支援セミナー。また子ども用教材「算数の力」(文溪堂)の監修経験から教材教具を活用した算数授業づくりセミナーや、教具を使った遊びを通して行う学級づくりのセミナーなど幅広い活動を全国で展開している。
主な著書に、『学級通信で見る! 田中博史の学級づくり』(1,4,6年生)、『子どもが変わる接し方』『子どもが変わる授業』(東洋館出版社)、『子どもの「困り方」に寄り添う算数授業」(文溪堂) 等。

盛山 隆雄

筑波大学附属小学校教諭、玉川大学非常勤講師
1971年鳥取県生まれ。全国算数授業研究会常任理事、隔月刊誌『算数授業研究』編集委員、教科書「小学算数」(教育出版)編集委員、日本数学教育学会常任幹事、全国初等教育研究会(JEES)常任理事、志の算数教育研究会(志算研)代表。
主な著書に、『数学的活動を通して学びに向かう力を育てる算数授業づくり』『「数学的な考え方」を育てる授業』『板書で見る 全単元・全時間の授業のすべて 算数 5年上』『クラスづくりで大切にしたいこと』『思考と表現を深める 算数の発問』(東洋館出版社)等。