特集 ちえをもちよる vol.10 避難所運営の実際と教職員の苦悩
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防災士で、宮城県石巻西高等学校の元校長である齋藤幸男さんは、東日本大震災が起きた当時、石巻西高の教頭として、同校に設置された避難所と遺体安置所の運営にあたりました。同校は指定避難所ではありませんでしたが、人道的な立場から、教職員だけで44日間の避難所運営を行いました。現在、齋藤先生は、その経験と教訓を語り継ぐ活動を行っています。
特集「ちえをもちよる」最終回。齋藤先生が、災害発生後の対応について、いま私たちがもつべき発想や見直しておきたい意識について、知恵を持ち寄ります。
*震災当時の具体的記述がありますので、あらかじめご了承ください。
避難所からの手紙(抜粋)
3月11日午後2時46分、高校入試業務に追われていました。生徒達は部活動や自習のために登校している者を除くとほとんどが帰宅している状況でした。石巻西高には大勢の避難者が駆け込んで来て、その日の夜から発電機を使っての避難所運営が始まりました。幸運にも学校の食堂のプロパンガスが使えたので、職員が懸命に炊き出しを行いながら避難者の飢えをしのぎ、学校の貯水槽に残っていた飲料水で急場をしのぎ、プールの水を発電機で汲んでトイレに利用し、どうにか日常の生活に近い状態を保つようにと必死でした。すべての人が家族との連絡も途絶えたまま、不安と焦りの中で数日を過ごしました。
道路が少し復旧してから家族の安否確認のために一旦は帰宅しましたが、家族の無事を確認するやいなや学校にとんぼ返りし、再び避難所運営の日々が始まりました。避難所運営の最初の一週間は救援物資のあてがなかったので、食堂内の倉庫に蓄えてあった物資でまかないました。地震発生当初は、ラジオからの情報が一番の頼りでしたが、日々伝えられる情報の酷さのために眠れない日々が続きました。庁務員室でフトンに入る時、自分の心の置き場所が見つかりませんでした。そんな中で、妻から叔父の訃報が届きました。運命のいたずらなのでしょうか、叔父は私の勤務する西高の体育館に安置されていました。安置番号は205番でした。一番心配をかけた私に会いにきてくれたのだと思います。避難所運営の覚悟が定まったのはその時からでした。避難者を自分の身内だと思う感情が自然とあふれてきました。教師としての使命感を忘れまい、人道支援者として偽善的であってはならない、人間としてひたすら真っ直ぐな道を歩もうとする自分の心の底力だけを信じようとしました。
避難所運営の44日
3月11日、想像を絶する揺れがおさまってから生徒をグランドに待避させ無事や怪我の有無などを確認し、被害状況を確認するため再び校舎内に入った。その後、教員たちは生徒の不安と恐怖をしずめようと励まし合った。
当時は正式な指定避難所ではなく、避難所運営マニュアルもなかったが、人道的な立場から避難者を受け入れた。職員玄関を受け付けにして名簿を作成し、各教室や武道館、会議室、作法室など、使える施設はすべて開放した。体育館は照明灯落下の危険性から使用しなかった。地震発生の直後から、電気、水道、ガスなどのライフラインがすべて止まり、外部との連絡がとれなくなったので孤立感だけが深まっていった。避難所として準備した施設・設備は、受水槽から飲料水、プロパンガスを使用して食事の準備、倉庫の石油ストーブを各部屋に配置するなど、役割分担を決めて優先順位の高いものから対応した。
13日、震災直後はやむを得ず土足解禁にしたが、衛生上の問題から土足厳禁にして清掃を行いマスク着用を呼びかけた。午後になり支援物資が届いたが。ガソリン不足で通勤に支障をきたした。
14日、電気が復旧しパソコンも使用可能となり情報収集・発信が可能になると同時にNTTが3台の衛星電話を設置してくれた。
17日、警察が来校して最大で約700名の遺体が体育館に安置された。避難者も教職員も精神的に追い詰められていった。東松島市の災害対策本部から食糧、生活用品、医薬品、ガソリンなどが配給され始めた。日赤医療チームが巡回し衛生面での環境改善が図られた。
23日、入試の合格発表を行ったが、遺体の安置番号を確認に来た来校者か区別ができなかった。
31日に遺体安置所の業務が終了。
4月1日、新任職員の赴任と転出職員に兼務発令が発表され、教職員4人の当直体制を開始した。自宅が被災した教職員は、校舎での生活を余儀なくされた。
5日、学校のホームページ、緊急時一斉メール配信、テレビのテロップを通じて11日を出校日にすると発信した。
6日、2次避難説明会が開かれた。学校は避難所運営の見通し、新年度に向けての業務を再開した。
10日、朝に水道が復旧し避難所生活が劇的に改善された。
11日、出校日にし、追悼式・修了式・離任式および生活状況調査を実施した。夕方に震度5弱の地震が発生して津波警報が発令され住民が避難してきた。
18日~19日、避難所の掲示物撤去や毛布などの後片付けを生徒と一緒に行った。日赤医療チームが巡回し、2次避難場所へ移動したり、帰宅する避難者の健康相談が行われた。
22日、通常の授業形態で学校を再開した。
23日、避難所運営業務のすべてが終了した。
避難所運営の教訓
避難所の数だけ運営方法がある。災害が発生した混乱期の課題に対応するためには、組織運営における「報告・連絡・相談」の「報告」を優先せざるを得ない。即断即決が要求される状況では、役割分担を決めてその担当者に判断をしてもらわざるを得ないからである。
そして、忘れてならないのは、避難所運営を支えてくれた子どもたちの存在である。苦難に立ち向かう教職員の姿を見ながら、必要とされる自分を自覚して行動したのである。しかし、災害時において子どもたちが抱いた有用感が、学校再開後の心のケアにも影響したことを指摘する人は少ない。
ところで、多くの避難所でさまざまなトラブルが生じる原因を考えてみると、そこには大人と子どもの考え方の違いが見えてくる。災害発生の直後は、大人たちが経験してきたタテ割りの組織が機能しない場合が多い。本部の判断や指示を待っている間に時間がかかることで不安感や恐怖感が増す。
一方において子どもたちは、自分ができる役割を考えながらスピード感のある対応を考える。子どもたちの考えを図式化すると図1のようになる。これは、蜘蛛の巣をイメージしたものであり、英語にするとウェブ(Web)の訳になる。
この図を見れば、お互いが顔の見える関係で行動できるし、スピード感をもって緊急事態に対応しやすくなる。これは情報発信型ではなく情報集約型の発想であり、当事者意識が芽生えて自分の行動に責任を持つようになる。
避難所運営を経験して感じたことは、避難所生活で生じるさまざまなトラブルの背景には、公助頼みとタテ割り意識が影響していると考えるべきということである。
東日本大震災が発生したとき、全国からたくさんの支援物資が送られてきたが、どこにどれだけの支援物資を配布するのか、その手順がなかなか決まらずにかなりの時間を要したのである。そこにもタテ割意識の弊害があったのではないかと考えている。
災害発生後の課題と対応
全国各地で震災を語り継ぐ活動をしながら、若手の人材育成のために実践しているのが、災害発生後の課題と対応ワークショップである。 2020年1月、兵庫県立舞子高等学校環境防災科の授業での取り組みを紹介しておきたい。
はじめに、ワークショップのねらいと留意点を説明すると、
① 初動期のスピード感ある対応
② 災害の全体像を把握する視点
③ 若手人材の育成に対する理解
④ 役割意識を重視するWeb発想
この4点について、ウェビングの発想を生かして対策本部を中心に位置付け、必要な役割を想定しながら関連づける演習を行った。それぞれの役割について、各班毎にスマートフォンやタブレット端末などを活用しながら、過去の災害の教訓や課題を調べてから発表する授業形態である。ワークショップの意義や目的を理解し、自分たちがなすべきことを自覚して活動する若者たちの表情は頼もしく感じられた。
災害大国の日本において、若手人材の育成が急務である現状を考えると、多くの企業や自治体、そして学校においても具体的な方策が検討されるべきである。このワークショップを体験することによって、高校や大学を卒業してから企業や自治体などに就職することになれば、早い段階から災害の全体像を把握する力を身につけたことになる。
併せて、各自治体、企業、地域などで実施されてきた防災訓練の形骸化を見直すことにもつながる。
2023年4月、高校の教育課程で「地理総合」が必修科目になった。阪神淡路大震災以降、災害を対象とした調査研究が行われてきたが、その地理情報システム(GIS)をすべての高校生が学ぶことになったのである。これは今後の日本の防災対策にとどまらず、持続可能な開発目標(SDGs)を掲げて世界各国と協働関係を構築するうえで不可欠な人材育成につながると確信している。
2024年1月1日の能登半島地震による被災者の声が毎日のように報道されているが、国民には支援に駆けつけた災害ボランティアや各自治対の対口支援の実態について、より詳しく具体的に伝える使命がメディアにあるのではなかろうか。
とりわけ、中国の四川大地震のときに実施された対口支援の発想を生かした各自治体の方策には、スピード感ある対応を行うための工夫がなされている。日本のタテ割り組織は、複数の眼でチェックするので間違いが少ないメリットがあるが、激甚災害が毎年のように発生する時代においては、混乱期における役割意識がとても大切なのである。それこそが、私たちが地域の防災力を育成するために取り組むべきあり方ではなかろうか。将来的には、自助・共助・公助の限界を埋める「のりしろの力」を身につけた市民力になると考えている。
毎年のように発生する台風被害、線状降水帯による豪雨被害、そして予測される巨大地震などを考えると、「想定外は人間のおごりである」という防災意識が、日常の肌感覚として多くの国民が自覚しているとは、まだまだ言い難い。
齋藤幸男(さいとう・ゆきお)
1954年、宮城県塩釜市生まれ。東北大学文学部卒業。宮城県の高校教員として37年間奉職。2011年3月11日の東日本大震災発生時に、石巻西高校教頭として避難所運営にあたる。震災当時の石巻西高校は指定避難所ではなかったが、人道的な立場から教職員だけで44日間の避難所運営を行った。体育館が最大約700名の遺体仮安置所・検視所となるなか、校舎を開放して約400名の地域住民の避難生活を支援。その後、2012年に同校校長に昇任。現職時代からの震災の教訓を語り継ぐ活動を始め、2015年に退職後の今も、防災教育を切り口とした命の教育の大切さを広めるために全国を歩いている。最新刊に『生きとし生けるもの-この国での災害との向き合い方』(学事出版)。
令和6年(2024年)能登半島地震に係る災害義援金の受付について:石川県Webサイト