『その指導は、しない』めがね旦那 著
当たり前に行っている指導が、実は子どものためになっていないのではないか。
思考停止した状態で、慣例の行事を行うことで、実は子どもの人権を侵害していないか。
学校現場の当たり前を問い直す。
本書では、まっすぐな目で、今の学校現場を見直します。ただ批判するだけであった指導を放棄することを目的としてはいません。すべて子どものため、子どもの人権のために指導を見直します。思考停止になりがちな学校現場への挑戦であり、学校の当たり前とは何かを根本から問い直します。教育界の異端・カリスマが、そのまっすぐすぎる洞察から、学校現場での違和に本質から向かい合います。
本文紹介(抜粋)
◎あいさつの必要性
キーンコーンカーンコーン
「起立、これから一時間目の授業を始めます、礼」
よくある授業開始のあいさつだと思います。そして、僕はこれに必要性をまったく感じないので自分のクラスではあいさつをしていません。チャイムが鳴って、子どもたちが運動場からぞろぞろと帰ってきて、ある程度落ち着いたら、そのまま授業を開始します。
(中略)
たしかに、日本の文化に「礼」はあります。つまり、この授業開始のあいさつは「文化の伝承」という側面もあるのかもしれません。しかし、1日6時間の授業で、年間200日以上も「礼」をさせる必要なんてあるのでしょうか。むしろ、それだけの回数の礼をさせていたら礼のもつ意味が薄れてきて、だんだん「形式的」になるのではないかという僕の危惧は、多くの学級の実態とそんなに外れていないと思えてくるのです。
ちなみに、僕は授業終わりのあいさつもしません。子どもたちはチャイムが鳴ったらすぐに休み時間に「気持ちが切り替わり」ます。チャイムが鳴っているのに、あいさつが揃っていないからといってあいさつのやり直しをさせていませんか。
◎「みんな遊び」はするべきではない
理由は単純明快で「休み時間は子どもたちの自由な時間であり教員は教育活動を設定すべきではない」ということです。当たり前ですが、子どもたちの興味・関心は多種多様です。もちろん休み時間にやりたい活動だって十人十色です。外で鬼ごっこをしたい子、ドッジボールをしたい子、日向ぼっこをしたい子、教室で本を読みたい子、おしゃべりをしたい子、ゆっくりトイレへ行きたい子…。それらの思いを全部ぶったぎって「一つの活動」を全員に半ば強制的にさせるということのおかしさに我々教員は気付かないといけません。
クラスの親睦を図るという目的自体を否定しているのではありません。教員側がそのような教育活動を設定したいのであれば「特別活動」などの「授業時間」に設定すれば、僕はそこに何の不満もありません。子どもたちがクラスのことを考え、話し合い、親睦を深める必要性を感じて「みんな遊び」をすれば良いのです。それを「子どもは遊ぶのが好きだから」とか「クラスのためだから」とかそんな理由で「子どもの自由な時間を奪う」というその感覚に問題があります。
◎人権侵害の二分の一成人式
この活動は子どもたちのプライバシーを大きく侵害する可能性を多分に秘めた「危険な活動」であると思っています。学校というのは「すべての子どもたちは家庭で十分な愛情を受けて育てられている」という前提でもあるかのような学習活動を設定してしまっていることが非常に多いのです。3年生の社会科でも「買い物調べ」という活動があります。身近な食品などをどのお店で買っているか保護者にアンケートを取るというものです。これだってプライバシーの侵害につながります。しかし、教科書に設定されている活動だけにやらざるを得ないという先生も多いかもしれません。
このように我々は様々な学習活動を子どもたちにやらせる際に、「人権」だったり「プライバシー」の視点からその活動を実施するのかどうかを判断する必要があるのです。
1987年生まれ。育児休業中に始めたで独自の教育観に基づくツイートの発信を始めると開始数ヶ月でフォロワーが2万人を超える。学校の「当たり前」に対して疑問を投げかける内容の投稿が多い。特別支援教育や不登校対応にも関心があり、独自の実践を重ねている。また働き方も注目を集めており、2020年度には学級担任をしながら定時退勤かつ休憩時間取得という前代未聞の快挙を達成した(持ち帰り仕事も一切していない)。
3児の父であり、妻も小学校教員である。
twitterアカウント: @megane654321