令和2年度に完全実施となった小学校学習指導要領では、資質・能力の育成を主眼としている。そのために、教科等において<知識及び技能><思考力、判断力、表現力等><学びに向かう力、人間性等>の三つの柱を立て、各教科等で学ぶべき内容が整理された。
では、国語で育成を目指す資質・能力、すなわち「できるようになる」力とは何であろうか。
それは、これまでの学習で獲得してきた言葉の力を、目の前のテキストを読むことや表現することに応用できる力であり、新たに獲得した力と関連付け、自覚化し、更新する力である。
だがここで、国語科特有の壁がある。
それは、学びの素材としての「教材」である。
子どもたちは、純粋な“読者”として書かれている「内容」を読む。
「ごんぎつね」を読み浸り、ぐったりと目をつぶったままうなずくごんの、やっと気付いてもらえたといううれしさ、でももう兵十と関わり合うことが叶わない切なさ、孤独を味わう。その感動を教室で学ぶ仲間と共有できることの価値は高い。
一方、教師は、「追究内容」と共に「仲間との学びの共体験」に対するこだわりが強い。
「海のいのち」を読んだ子どもたちの初発の感想をもとに学習課題を設定し、いよいよクライマックス場面の授業において「どうして太一はクエを打たなかったのだろう」と投げかける。ペアやグループ、学級全体でそれぞれの意見を交流させ、最終的に「クエの姿に偉大な父の姿を感じたから」「生命の尊さを感じたから」等の考えを引き出し、感動を共有して授業を終える。この体験も子どもたちにとっては大切な時間となるだろう。
だがしかし、その時間や経験に、言葉の学びとしての価値付け、自覚化がどこまで子どもたちにもたらされているだろうか。
様々な読解スキーマ(読む力)をもつ子どもが集まる教室という場所で、同じ土俵で、同じように読みを共有できているだろうか。
ここに、国語授業が抱える難しさがある。
だからこそ、ここで教師が教えるべきは、学びの共体験を通過し、教材の豊かな読みを成立させる過程で、どうしてごんと兵十の関係に切なさを感じるのか、太一のここに至るまでの心情の変化がどの叙述にどの様に書かれてきたのかに気付かせる、つまり「どこに目を付ければ、どのような解釈がもてるか」という、考える術となる「読み方」なのである。
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