ぼくと不登校と義務教育

ぼくと不登校と義務教育

不登校を経て世界を飛び回るフォトジャーナリストとなった佐藤慧さんが多感な子どもたちに綴った読み物、10分後に世界が広がる手紙シリーズ全3巻(小社刊)。ここでは、学校という場のかけがえのなさや、不安・窮屈さを感じている思春期の心に向き合う5話を、Edupia連載として再編集しました。
第4回は『君はどんな大人になりたい?』収録の「ぼくは欠陥品なのかな?」。不登校になり、自身を「欠陥品」のように感じていた佐藤さんが今思う義務教育の意味とはーー。

小学校時代は、ときどき休みながらもなんとか通いましたが、中学校に入ったとたん、学校が「きらい」になりました。なぜきらいなのか、自分でもわかりません。あえて言葉にするなら、「めんどう」に感じたのです。朝から夕方まで、じっといすに座って黒板をながめていることが、退屈でしょうがなかったのです。
小学生のころはまだ、のんびりとした授業ばかりでしたが、中学生になると、それぞれ教科ごとにちがう先生がいます。進学校ではありませんでしたが、「3年生になったら高校受験がひかえている」ということは、みんななんとなく感じていました。いっしょに野山をかけ回っていた友達も、「それは子どものすることだから」と、遊ぶ時間もへりました。するとなんだか急に毎日が、つまらないものに思えてきたのです。

夏休みが終わったころから、学校に行かなくなりました。もう仮病も使いません。学校に行くことそのものが「めんどう」だったのです。
仲の良い友達もいたし、部活(野球部でした)もきらいではありませんでした。いろんなことを勉強したいという好奇心もありましたが、「学校」という場所が、どうにも息苦しく感じるようになってしまったのです。
「ぼくだけがおかしいのかな?」「ちゃんと学校に通えないぼくは、欠陥品なのかな?」などと、日に日に不安がつのっていきます。

両親も、初めはなぜぼくが学校に通えなくなったのかわからず、どこか具合が悪いのかと心配していました。でもぼくが、家でゲームをしたり、好きな本を読んだりしていると、「サボっている」としかるようになりました。

朝起きて、「学校に行きなさい!」とどなられながら、泣きたい気持ちで玄関を出て、そのまま近所の公園で時間をつぶし、学校に行ったふりをして帰宅することもありました。
でもいつまでも、ごまかせるものではありません。担任の先生から電話がかかってきたり、とつぜんの家庭訪問があったりと、学校に行ってないことがばれると、余計にしかられました。

「なぜ学校に行かないんだ!」と言われても、ぼくにも理由がわからないのです。なんだかとってもきゅうくつな気分になる、そんな理由しかありませんでした。しばらくすると学校から、「不登校ということでは都合が悪いので、病欠ということにしてほしい」という連絡がありました。学校に通わない生徒がいると、学校の信用にかかわるというのです。それを聞いた瞬間、「ああ、ぼくのことなんかよりも、学校の評判のほうが大切なんだ」と感じて、「二度と行ってやるもんか!」と思いました。
大人って、いばってばっかりいるけれど、自分のことしか考えてないじゃないか。学校って、「行かなきゃいけない」とはいうけれど、行けない生徒のことは、切り捨てるだけじゃないかと、イライラがつのっていきました。

学校に行かずに、よく空を眺めていた 撮影/佐藤慧

そんなぼくの様子を心配してくれていたのでしょう。当時母が言ってくれた言葉を、今でも覚えています。
「中学校なんて、人生の中のほんのわずかな時間でしかないんだよ。そこでしか学べないことも、あると思う。でもね、もし学校に行くことが本当に苦しくていやだったら、べつに行かなくたって、なにも悪くないんだよ。勉強なら、教科書さえあれば、家でもできるからね」
ぼくはその言葉を聞いておどろきました。学校とは「行かなければいけない場所」だと思っていたのです。だって「義務教育」という言葉があるくらいですから。だからこそ、学校に行けない自分は「欠陥品」なんだと思ってしまっていたのです。

ところが調べてみると、「義務教育」の義務とは、そこに通う子どもではなく、「子どもを持つ親や保護者」に課せられた義務だということがわかります。日本では、子どもに教育の機会をあたえるのは大人の義務であると、憲法で決められているのです。
そしてこれは日本だけのことではなく、国際人権規約という、世界的に大きな取り決めでも、「すべての人が、そうした教育をうける権利がある」と決められています。

ぼくたちは、「これを学びなさい」という義務を課されているわけではなく、ぼくたち自身がのばしたいと思う能力を、「自由に学ぶ権利」をあたえられているのです。けれど、自分が本当に学びたいことはなにかということを知るには、まずは基本的なものごとを、しっかりと学ぶことが役に立ちます。
読み書きができなかったり、簡単な足し算、引き算ができなかったりしたら、こまることも多いでしょう。そうした、「本当に学びたいものを見つける」ための知識、能力をたくわえる場所として、義務教育というものがあるのです。

いうなれば、旅に出る前の準備のようなものかもしれません。地図とコンパス、水と食料、テントやねぶくろ、おやつの板チョコ……。人によっても、行く場所によっても、必要なものはちがいます。けれど、だれもが必ず確認しなければならないものが、ふたつあります。それは、「現在地」と「目的地」です。どれだけりっぱな地図やコンパス、たくさんの食べものを持っていても、「目的地」がわからなければ、どこにもたどり着きません。そして、今自分がどこにいるのかという「現在地」を知らなければ、旅立つこともできないのです。

そう思ったぼくはまず、自分がどこに行きたいのかという、「目的地」をじっくり考えることにしました。「目的地」が決まれば、自分の「現在地」、つまり「今の自分にはなにが足りないか」「なにを勉強したらいいのか」といったことが、見えてくるのではないかと思ったのです。
ぼくはなにを面白いと思い、なにに熱中できるのか。なにをしたいと思い、どう生きていきたいのか。そうした思いや感情が、「目的地」を指ししめすコンパスとなり、まだ見ぬ未来へと、いきおいよく針をふり始めました。

北極海上空。ぼくのコンパスはいろんな景色を見せてくれる 撮影/佐藤慧