創造的な学びを展開するジェネレーターは、造形遊びから

創造的な学びを展開するジェネレーターは、造形遊びから - 東洋館出版社

学習指導要領に掲載されてから40年以上経ち、教科書にもしっかりと掲載されている「造形遊び」。しかし未だに「やったことがない」という先生方が多いと聞きます。「どうしたらいいのか分からない」という声もよく聞きます。その造形遊びに挑戦することで、他教科や探究学習にも活かせるジェネレーターのあり方を取り戻せるのです。今回は、前回を受けてジェネレーターの視点でみた造形遊びの実践を紹介します。

前回「おしゃれなカラス」という平面作品の授業例をもとに、ジェネレーターについて解説しました。ただジェネレーターとしての“在り方”を最も生かせるのは、この連載でも何度か登場している図画工作科「造形遊び」です。

「教える」意識が強い先生ほど、「造形遊び」の実践は難しく感じます。「導く」意識の強い先生でさえも、少し困惑するかもしれません。「どうまとめよう」、「どこにゴールをもっていけばいいのか?」なんて考えると頭を抱えてしまうのかもしれません。

しかし、「造形遊び」を実践する際は、その場で生成されていくことを面白がり、それに乗り変化していくことに向き合っていくことが大切です。先生のその在り方で、この授業は先生も子どもたちも面白くて豊かな時間になります。 そして、先生は子どもたちと同じ目線で活動をする中で、普段とは違った観点で子どもたちをみることできます。評価をしていく上でも、とても大切な時間になるはずです。

そこで今回は、毛糸を使った造形遊びを活かしたワークショップを例に、ジェネレーターが生かされる場面を紹介していきます。

「今日の材料は、毛糸だよ!」と僕が毛糸の玉を思い切り引っ張って、空間に巻き付けていきました。「楽しそう」に演じて見せている訳ではなく、実際にこの行為は楽しいのです。素直に楽しんでいる様子は、すぐに周りに伝わります。早速「自分もやってみたい!」とすぐに造形活動がスタートします。

その空間は、すぐに毛糸で変化していきます。こうなると様々なことが生成されていきます。

「クモの巣みたいだから、クモの絵を描きたい!」
この辺は僕の想定内でした。
「いいよ!紙とペンあるよ!」と差し出して、描きおわったら「このクモどこにいそう!?」と一緒に探して、「ここ!」という場所に洗濯バサミで止めていきました。

「じゃあさ!クモの巣だったら、何か捕まっているかも!」と次の瞬間、参加者のお父さんがぐるぐる巻きに!!

お父さんもこれに乗ってくれました。子どもたちによって生成されたこの雰囲気にジェネレート(発電=ワクワクや熱量が生まれちゃう)されたのかもしれません。

こうなれば、もうアイデアは止まりません。
様々な実験が始まります。それはもう数えきれないくらい。

僕が「教える」ことはありません。僕が「導く」なんてできません。
みんなが何かに取り組み始め、どんどん変化していくのです。そして、僕も一緒になってその場に没入していきます。

以下はこの時の僕の写真です。周りを見渡して監督する訳ではなく、見守るわけでもなく、ジェネレーターはその場の一人として、没入していくのです。

この姿は明らかに「教える人」でも、「導く人」でもありませんよね。

最後はこんなことが起きました。

「そうだ!みんなでレースしよう!!」

はじめましての参加者同士のワークショップでしたが、不思議と一体感が生まれました。僕が仕掛けたことではなく、ファシリテーターとしてここに導きたいと描いていた風景でもありません。この場で生成されたものなのです。

この状態を「一般社団法人みつかる・わかる」代表理事の市川力さんは、以下のように説明されています。

生成の現場に入り込むと、自分が確かに関わってはいたが、「自分がジェネレートした」という自覚はなく、何をしたらそうなったのかということも明確には分からない。(中略)「誰かがジェネレートする」というように能動的な行為として捉えると、僕や市川さんは何をしているのか?という問いになってしまう。けれどもそういうものではなく、そもそもジェネレートという出来事が起きるのだ。そこに僕らは関わり、巻き込まれ、参加し、味わい、その一翼を担うということなのだ。

「ジェネレーター学びと活動の生成」(市川力・井庭崇著、学事出版 2022)

これが第14回でも書いた僕の「(先生も子どもも含む)私たち」で授業をつくる、という感覚なのだと思っています。さらに市川力・井庭崇さんはこう伝えてくれています。

ジェネレーターの場合は、コミュニケーションをつなぐだけでなく、そこに新たな意味を付加して場に返す。誰かが言ったことを聴いて、何かを思いついちゃう。それを素直に出す。それだけのこと。

ジェネレーターは特別なことをしていません。なんとなく思いついちゃう。この自分自身の“なんとなく”に、素直に応対していくのです。それでいいのです。

「それ○○みたい!」
「僕さ、いいこと思いついたんだけど!」

僕も子どもたちと、その場で気がついたこと、思いついたことを伝え合います。これは技法とか意識的にではなく、なんとなく思ったことをその場においていくだけです。

「それいいね!」
「えー!やだよ!私は、こうするんだ!!」
「じゃあ、ぼくはこれをやってみよう!」

子どもも大人も関係なく、アイデアが飛び交い、実験的な取り組みがはじまります。それを繰り返してくと、いつの間にかその場にいる全員がジェネレーターになっているのです。僕も子どもからアイデアをもらい「あ!いいこと考えた!」となっている。先生も子どもも関係なく、みんながジェネレーター。私たちで授業という時間をつくっている、過ごしているという感覚です。

本当にそれでいいの?と疑問に思われそうですが、図画工作科の学習指導要領解説でも以下の記載があるのです。

「造形遊びをする」は、結果的に作品になることもあるが、始めから具体的な作品をつくることを目的としないのに対して、「絵や立体、工作に表す」は、およそのテーマや目的を基に作品をつくろうとすることから始まる。また、「造形遊びをする」は、思い付くままに試みる自由さなどの遊びの特性を生かしたものであるが、「絵や立体、工作に表す」は、テーマや目的、用途や機能などに沿って自分の表現を追求していく性質がある。このような、それぞれの活動の特性を生かしながら指導を工夫する必要がある。

小学校学習指導要領(平成29年告示)解説/図画工作編21ページ

始めから具体的な作品をつくることを目的としない = 授業の中で生成される
思い付くままに試みる自由さ=なんとなくでOK!!
 

と、いうことです。
どうでしょうか?少し安心できませんか?

そんな僕も、何かを説明したり、教えなければいけない場面は「教える人」になります。例えば、プログラミングツールやノコギリなどの初めての道具を使う場面。この時は、知識を伝達する「インストラクション(instruction)」の時間をつくります。 例えば、絵画を見合う対話型鑑賞の時間。この時は、なんとなくではなく、その技法や理論を踏まえたやり取りに挑戦することもあります。

それでも、正解のない学び、創造的な学び、つくりながら学ぶ場面では、教える人ではなく、導く人でもなく、その場で生成されていくことを面白がり、変化していくことに向き合うのです。そう演じる訳ではありません。役割としてジェネレーターになるのではありません。お互い面白いものを共につくろうと目指す仲間になり影響し合うので、結果的に真剣に取り組み、想像をはるかに超える作品が生まれるのです。

図画工作科の造形遊びの時間は、先生自身のこの感覚を取り戻す絶好の機会になるはずです。今までの「教えなきゃ」という意識をはずしてみませんか?「何かをまとめなきゃ」という想いを一旦止めてみませんか?一旦子どもたちと一緒になって、つくってみませんか?予定調和からは決して生まれない面白さを味わってみませんか?

造形遊び1回で、その感覚を取り戻すのは難しいでしょう。何回も何回もやるのです。そのうちに、子どもたちも変わってきます。なんとなくでも良いという安心感は、「発想する」というハードルを下げてくれます。そして「絵や立体、工作に表す」活動だって、アイデアがどんどん飛び交うようになるのです。

先生自身もこの感覚を取り戻せたら、前回紹介した「おしゃれなカラス」だって、例に挙げた方法ではなくて、もっと面白くて、もっと創造的な授業に組み立て直すことだってできるようになります。そして、図工だけではなく、あらゆる教科において、創造的な学びを展開することができるようになるのです。