ぶらぶら読書旅へのおさそい
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どうも安藤浩太(Andy)です。第1回目では中堅教員の皆さん向けて「読書のススメ」を紹介させていただきました。次なるぶらぶら読書旅は、「もう一度、大切なものを見つめ直す旅」へのおさそいです。
私たちは日々、授業に学校生活にと充実しながらも忙しい日々を過ごします。そんな諾々たる忙しさの暴流に流されるうちに、気付いたら一日、一カ月、一年が過ぎていることも珍しくはありません。でも、ふとした拍子に、思い起こされるように脳内にリフレインされる言葉が私にはあります。それは、「本当にそれでいいのか」という言葉です。今のその子への言葉かけ、あの子への対応、忙しい日々の中で続けざまに起こるそれらの、その時の対応が「本当に、それでよかったのか。その子の、あの子が成長する一助となっていたのか」。そう、もう一人の自分が語りかけてきます。情けないことに、そのほとんどは忙しさの波にのまれ、深く考えることもできず過ぎ去ってしまいます。でもそれらは、決して忘れてはいけないことなのだと、忙しさに追いやられたもう一人の私が強く語りかけるのです。
だからこそ、教える、育くむとはどのような営みなのか。忙しい日々でも折にふれて、考えたいと思うのです。そこで、「ぶらぶら読書旅~大切なものを見つめ直す旅~」と称して、前回同様、今回も5冊1組のアンソロジー形式で書籍を紹介していきたいと思います。
ぶらぶら読書旅、一冊目は「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」です。教える、育まれる営みは何も義務教育段階である小学校から始まっているわけではありません。生まれて小学校に入学するまで、実に七年もの年月があります。決して短くないその間、子供たちはどのようなことを学び、育っていくのでしょうか。
本書では「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」と銘打ち、幼児期の終わりまでに目指す成長の姿を具体的に紹介しています。事例で語られる子供たちの姿は、素敵すぎて思わず笑みがこぼれたり、おぉ、、、と感嘆の息がもれたり。まさに遊びや生活の中で確かに学ぶ姿が説得力をもって語られます。そこには様々な学びの芽が見て取れます。その芽がさらに伸びるように小学校では何ができるのか。本書はさらに語りかけてくれます。
現行の学習指導要領において中教審委員・初等中等教育分科会教育課程部会長を務め、長年幼児教育を牽引してきた編著者。そんな方が編著者ですから、小学校への接続の視点も明朗快活。まさに子供たちの学びと育ちを受けてどのように接続するべきか示唆に富んでいます。幼児期の学びを知ることで、実践が豊かになることはもちろん、校種を越えて大切にしたいことは何か比較する中で見えてくることがあるはずです。
続いてのぶらぶら読書旅は『「豊かな環境をつくる」保育』です。乳幼児期で、子供たちは無為に過ごしているわけでも、ただ遊んでいるわけでもなく、たくさんのことを学んでいることが分かりました。小学校が学びのスタートラインではないということです。
ですが、幼児期の素敵な学びの裏には、幼稚園や保育所、認定こども園(以下、園)の先生方による素敵な援助があります。援助とは、子供たちの主体性を支える支援のことです。様々優れた援助がありますが、その中でも環境構成(再構成)の工夫は見事としか言いようがありません。本書では、そのような環境構成の工夫がふんだんに紹介されています。
例えば、子供たちが主体的に行動できる環境や、遊び(学び)が継続する環境について、子供同士の関わりが生まれる環境についてなど。具体的事例とアイディアと共に語られるそれらは、まさに私たちが喉から手が出るほど求めているものなのではないでしょうか。
環境に促されるようにして、子供たちは対象と関わり続け、学び、育っていく。言葉による直接的な指導だけでなく、環境構成を工夫することも、子供たちの学びを支える教師の大切な働きかけです。そのように、教師の指導性の発揮の仕方を柔軟に捉えることも大切なのだと本書は教えてくれます。
もちろん、今まで見てきた本にあるように乳幼児期の素敵な学びや育ちの裏には園の先生方の指導の工夫があることは間違いありません。ですが、そういった育ちの大本にあるのは、子供観や指導観をはじめとした教師の在り方であることを本書は優しく語りかけてくれます。保育士おとーちゃんの愛称で知られる著者は、保育の目的は、大人が考える正しさを子供に教え込むことでなく、安心感をもってその子らしく成長していくための援助をすることだと言います。その為には保育者と子供たちの関係が大切で、「支配」でなく「信頼」によって関係を紡ぐための術の具体を教えてくれます。秀逸なのは「〇〇できたらえらいな(おだて)」、「〇〇できたら、〇〇できるよ(釣り)」などの一見配慮しているような言葉かけも、実は優しい支配でコントロールしているよ、と警鐘を鳴らしていることです。読みながら私も何度ドキリとしたことか。
人を教え育むことの何と素晴らしく、喜びに満ちた営みであるか、本書は教えてくれます。と同時に、自身の子供たちとの日々の関わりが子供たちの本来的な成長に寄与しているか、厳しく教えてもくれます。
乳幼児期の子供たちを教え育むために、園で大切にされてきたことは何か、そしてその結果どのように子供たちは育ってきたか少しずつ掴めてきたでしょうか。乳幼児期の教育は、あの子にとって、この子にとってと一人一人が主語となり、徹底的に「個」に根差しています。では、小学校はどうなのでしょう。幼児期と異なり、個という視点より集団という視点、個別指導より一斉指導に重きが置かれている印象はないでしょうか。
ですが、決してそうでないことを本書は具体的な方法と共に指し示してくれます。本書はタイトルの指し示す通り「令和の日本型学校教育の構築を目指して(答申)」で提言された個別最適な学びと協働的な学びについて、社会的要請や歴史的背景などの様々な視点から重層的にその必要性と具体を見事に描き出します。
その中で、一斉指導の歴史を振り返りつつ、その構成原理や社会的背景、さらには根にある子供観について舌鋒鋭く迫っていきます。そして、「すべての子供はみな有能な学び手である」こと、そしてそういった観にたつときに見えてくる授業についても言及します。それは奇しくも、幼児期から大切にされてきた人間本来の自然な学びの在り様とピタリと重なります。本書は、小学校だから、こうやってきたから、といった私たちの既成概念を鮮烈に打ちこわし、大切なものは変わらず、すぐそこ目の前にあることを教えてくれます。
さて、ぶらぶら読書旅も終わりが近づいてきました。最後の一冊は、「はじめに、子どもありき」です。冒頭の2つの文を下に載せます。皆さんは何を感じるでしょうか。
うん。最初この文を読んだとき、私は雷に打たれたような強い衝撃を感じ、呆然としたのを今でも覚えています。文の向こう側に、流行という名の新しい言葉に振り回される自分が見えました。そうして、自分本位な授業をし、自分の予想通りにならない子に無理に𠮟咤激励する、そんな自分の姿も重なりました。
読み進めるうちに、「あぁ、そうだった」と立ち返り、「あぁ、そうか」と新たなことを発見していきました。本書は「信頼」「子供観の問い直し」「教師の資質と役割」など、子供の事実とそれに対する教師の在り方を綴っています。それは丁度、これまでに読書旅でぶらぶらと立ち寄ってきた本たちとつながりながら、より深いところへ誘ってくれます。
私たちの教師という仕事の真ん中に、あるいは、はじめに何があるべきなのか。それは子どもなんだと、もっと言えば、今私の目の前にいる具体性を伴った「この子」なのだと。この子の成長を願い、そのために時に教え、時に見守り、その子を育むことこそ教師の専門性であり、すべきことなのだと本書は語りかけてくれます。
ぶらぶら旅もこれにて終点。さて、今回のぶらぶら読書旅はいかがだったでしょうか。
あなたが子供たちと過ごす価値ある日々の中。時に励まし、時に叱咤し、時に大切なことに気付かせてくれる、そんな素敵な本がいつもあなたの傍らにあることを願っています。