自由な授業へ3つのステップ

自由な授業へ3つのステップ - 東洋館出版社

「先生の授業は、自由で良い!」と子どもから言われる山内先生。前回、山内先生の考える“自由”とは「自分に理由がある」=「自分がやりたくてやっている状態」だとお聞きしました。その“自由”を授業にうむためには大きな3つのステップがあるそうです。今回はその3つのステップ(足場)のうち、第1ステップ、先生が「自由」になる。第2ステップ、子どもが「自由」になる。この2つを詳しく解説していただきます。

「学習指導要領に書いてあるから」「教科書にそうあるから」「○○先生がやりなさいと言うから」といった「他由」(他人の理由)で授業をつくらないこと。先生自身、自分がやりたいと思える授業をすることです。
そのためのタネを探すのです。

日々の暮らしは授業のタネに溢れています。今まで何度も見てきたもの、あのTV番組も、この本も、通勤路さえも、「授業をつくる」という視点で見たら、世界の見え方が変わり始めます。
教科書、教育関係書籍、研究会、他の先生の授業見学からでも構いません。僕は教科書の題材をたくさんやりましたし、休日に開催されている様々なワークショップに自分の子を連れて参加したり、大人向けのスキルアップ研修等に参加して、そこで体験した面白いワークを授業にしたこともあります。

真似から始めてもいいのです。誰かの真似をする時は、「授業で使わせてください!」と相手に伝えましょう。良い関係が築けると、その先も心強い味方になってくれます。
すべては、授業でやってみたい!これを授業にしたい!とあなた自身が思うところから始まります。

子どもは本当に大人のことをよく見て、感じています。大人が「つまらないなぁ」と思ってやる授業は、彼らだってつまらないのです。逆に大人が楽しくてしょうがないものは、子どもにも必ず伝わります。
公立小学校勤務時代に、子どもたちと同僚からも「山内先生っていつも何か楽しそうだよね」とよく言われました。実際、僕は毎日が楽しかったのです。

僕は、学習指導要領における拘束感をあまり感じたことがありません。
「これやってみたいな」と思って考えた授業を、学習指導要領に照らし合わせて確認するという使い方をしていました。
図画工作は、学習指導要領→教科書→授業という“他由”(他人が決めた理由)の流れではなく、「やってみたい!」→学習指導要領で確認→授業という“自由”の流れで授業がつくりやすいのです。それだけに難しいと思うこともたまにありますが、こんなにも先生が自由になれる教科は他にないと思っています。
先生の「こんな授業がしてみたい!」から始めましょう。

先生が自由になって、やりたい授業をみつけられたら、次は子どもの自由を考えます。
授業を組み立てる時に、僕が気をつけているのは、「こういう作品をつくらせたい」という視点で授業を考えないこと。作品の出来栄えではなく、自分が授業をする相手の子どもたちの顔を思い浮かべて、自由に活動できているかを想像します。

この時大事にしているのは、授業において、子どもたちが選択する機会をできるだけ多くつくることです。授業の余白とも呼んでいます。先生が示した方向に進むのではなく、子どもたちが自分の進みたい方向を見つけ、進んでいける。言葉にすると、これを授業の中で達成するのはとても高度なことのように思われます。

でも“モノ”がある、“材料・道具”がある、というのが図工の強みです。初めて出会うものは「触ってみたい」「使ってみたい」のです。大人だって、新商品に興味をもったり、今までなかったものが目の前にあれば、「これは何だろう?」と不思議に思ったりしますよね。そういう、人が持つ根本的な好奇心を大事にしたいのです。

例えばこんなシーンを想像してみてください。

未来からやってきた人に、「これ使っていいよ!」と未来の道具をプレゼントされたとします。

ちょっとドキドキしますね。多くの大人はこれまでの経験上、勝手に使って何か大変なことが起きてはいけないぞ、と説明を聞こうと考えたり、それが何なのかを理解してから使おうと思います。みなさんはどうですか?

ところが、子どもたちはまず「触れてみたい」、「いじってみたい」なのだなぁと感じます。年齢が下がれば下がるほど、まず手を伸ばして触りますよね。

目の前に魅力的な“モノ”があって、すぐ触れることができるのに、授業では大人(先生)から「ちょっと待ってね」と待たされます。ここまでは、まぁしょうがありません。 そして説明が始まります。この説明が肝です。

授業の冒頭での説明について、僕が気を付けているのは「子どもたちが自分で発見できると想定されるものは説明しない。自分で発見してもらう」ということです。すぐ触れて、使えたら、その方が彼らも嬉しいし、楽しいのです。子どもたちは、予想以上に自分で発見します。

説明が長いと、その分だけ使い方を示唆することになります。「これはダメ」「こうするとうまくいかないよ」「ここは、こうしなさい」・・・説明で使い方を限定し、子どもたちが自分で見つける楽しさを奪っていきます。

「こういう作品をつくらせたい」との思いで授業をつくると、先生の完成イメージに近づけたくなるので、どうしても説明が多くなりがちです。
しかし「子どもの自由をつくりたい」という思考なら、説明をいかに少なくできるかという観点で授業をつくれます。ここが大きな違いです。

プログラミングを用いた授業や、彫刻刀やのこぎりなどの刃物の扱いなど、どうしても説明が必要な場合があります。その際も15分かけて説明して、30分の活動に移るよりも、要素を分解して「短い説明→活動」を繰り返す方が、僕は楽しいと考えています。長い説明をしたところで、多くの子どもは大人が期待するほど聞いていないのです。そして長い説明の後の活動では、「さっき説明したじゃない!」「それ話したことと違うよね?」とお互いアンハッピーな状況がうまれがちです。子どもたちの「すぐやりたい!」を大事にしてあげたいのです。

短い説明で子どもに託すと、「このボタンを押すとここが動くよ!」「こう使うと良い感じになるよ!」「これは壊れそうだからやめておこうよ」などとクラス内で瞬く間にシェアされますし、自分が発見したんだぞ!と言わんばかりの満面の笑みで「みて!」と僕に伝えてくれます。そこで僕も色々教わります。僕が教える、伝えるではなく、「一緒にやってみよう!」なのです。

道具であれ、材料であれ、怪我をするようなことは絶対避けなければなりません。そこは注意しながら、説明する内容を最低限に削ぎ落とし、子どもに信じて託すことが、子どもの「自由」への第一歩です。

高学年になると、触ってみたい、使ってみたいに加えて「なんだこれ?」のしかけを大事にしています。これは具体的な実践例をお伝えする際に紹介しますね。

子どもから「山内先生の授業は、自由で良い!」と言われることが多くあります。しかし、その自由とはどういう意味なのでしょうか。
ここで改めて“自由”の意味を国語辞典で調べると以下のように記されています。

自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。「―な時間をもつ」「車を―にあやつる」「―の身」

勝手気ままなこと。わがまま。

《freedom》哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。つまり、「…からの自由」と「…への自由」をさす。

法律の範囲内で許容される随意の行為。

出典:大辞泉(小学館)

こう見ると、子どもたちが言う“自由”とは3の《freedom》自主的、主体的に自己自身の本性に従う、に近いのだと想像します。

描画材なら何でも使って良いという授業の日もあれば、今日は絵の具だけ!という限定的なルールの時もあります。材料も同じく、これしか使えない!という授業も少なくありません。「今日は校庭でやります!」、「2時間で終わり!」とか、場所だって時間だって、先生である僕から制約を受けています。授業としてのテーマもあるので、勝手気ままにはできませんし、自由になんでもできるという訳ではありません。

しかし、自分で発見していく、やりたい気持ちを邪魔されない「自分で理由をみつける」自由があると、子どもたちは“自由な授業”だと感じているのだと思います。

以上、自由をうむためのステップ2つについて、先生自身、自分がやりたいと思える授業をすること。子どもが授業で自由に活動できているか、子どもたちが自分で発見できると想定されるものは説明しない、自分で発見してもらう。というコツが伝わったでしょうか。