「遊びの特性」をもった学習設計

「遊びの特性」をもった学習設計 - 東洋館出版社

前回、図画工作科における「造形遊び」と、ジェネレーターという在り方をお伝えしました。 具体的な作品をつくることを目的とせず、「思い付くままに試みる」そして自由に遊びの特性を生かす「造形遊び」。今回はその「遊び」の部分に注目してみます。

「遊び」については様々な研究がされていますが、遊びの概念と人間、そして文化の関係を考察したホイジンガの著書「ホモ・ルーデンス」が有名です。

ホイジンガは、「遊び」の概念を次のように定義しています。

遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は、絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは、緊張と歓びの感情を伴い、またこれは「日常生活」とは「別のもの」という意識に裏づけられている

J.ホイジンガ著、高橋英夫訳『ホモ・ルーデンス』中公文庫

この理論は、ホイジンガの継承者と言われているカイヨワによって、さらに遊びの定義、遊びの分類などに新たな考察を加えています。カイヨワは遊びが持っている特徴として、以下の6つの活動に集約しています。

自由な活動

すなわち、遊戯が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。

隔離された活動

すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。

未確定の活動

すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由が必ず、遊戯者の側に残されていなければならない。

非生産的活動

すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。

規則のある活動

すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。

虚構の活動

すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。

R.カイヨワ著、多田道太郎、塚崎幹夫訳『遊びと人間』講談社学術文庫

未確定の活動で、非生産的な活動だなどというと、学習とは遠い世界と思われるかもしれません。しかし図画工作科の「造形遊び」においては、これら遊びの特性を取り入れた上で成立しているところに面白さと重要性を感じるのです。

さて、ここで一旦学校から離れて、放課後あるいは休日の子どもたちの過ごし方を想像してみましょう。お子さんがいる方はご自身のお子さんの様子を思い返してみてください。

ゲーム、YouTube・TikTokなどの動画視聴、さまざまなサブスクリプションサービス…現在は大人子ども関係なく、面白い、楽しいコンテンツが溢れる世の中です。それらは悪ではないし、否定されるべきものではありません。もはや日常となりつつあります。

また習い事においては、その多くがパッケージ化され安全安心、効果的で、効率的。大人によってそのゴールまでが計算された枠の中で、利用者(子どもたち)が取り組んでいるケースは少なくありません。

これらの過ごし方を、カイヨワの挙げる「遊びが持っている特徴」と合わせると、確かに「遊び」の要素を含んでいます。しかし、僕は「未確定の活動」について、過ごし方が多く欠けていると感じています。

3. 未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由が必ず、遊戯者の側に残されていなければならない。

やってみないとわからない。先行き不透明、不確かものは、大人でも不安で怖いものです。ただ、遊びにおいては、不思議とそれは気になりません。むしろだからこそ、面白い。それに対して、「遊び」以外では何だか常に「目標」「目的」があり、それをいかに達成できるか、というような活動ばかりではないでしょうか。

遊びを辞書で引くと、工学分野において接合部などに設けられた隙間や緩みのことも意味します。余白、あそび、隙間や緩み。コロナ禍においてたくさん聞こえるようになった「余白」も僕は同等の意味と捉えています。「目標」「目的」のない余白、遊び。
昔は、わざわざ設計せずとも、多くの余白、遊びの時間がありました。しかしそれが失われつつある今、本来必要のなかった学校の授業にも、「遊び」「余白」が必要になっているのです。

ただ遊ばせておくのではありません。「遊び」「余白」を学びの過程に設計するのです。
これは一見矛盾するようですが、第9回の連載で伝えたように僕の設計する授業やワークショップの構成は以下の流れをひとつの基準にしています。

  1. 「遊ぶ」
  2. 「価値づけ」
  3. 「日常との接続」
  4. 「課題発見」
  5. 「課題解決」

まずは遊ぶ。とにかく遊ぶのです。未確定で非効率でもいいのです。思いもよらない発見やアイデアを生み出すためには、いったん成果は忘れて、活動そのものを楽しんでいる状態をつくりだすことが大切なのです。この「遊ぶ」要素が、様々な場面で足りていない気がしてなりません。

先日、中学1-3年生を対象にした「Prototyping session」という特別授業を実施しました。
VIVIWARE Cell®︎というプロトタイピングツールを活用し、0-180°の可動域で動くサーボモーターの動きをプログラムします。その後、その動きから発想して、紙と組み合わせて工作し、何かを作り出してみる、というものです。

この授業の冒頭に、僕は生徒たちに、今回は成功は求めていないし、完成も求めないことを伝えました。共同的に手を動かしながら考えて、つくり、つくりかえるという行為そのものを体験することが目的であると明確に伝えました。

アイデアが生まれたら完成させたい!やりきりたい!という思いが自然に生まれ、楽しみながら懸命に取り組んでいました。この授業の終わりは作品発表ではありません。そこで「計画性をもった“つくる”」と、今回のような「共同的で偶然性をもった“つくる”」を比較して、それぞれのメリットを考え、それを発表してもらいました。

計画性をもった“つくる”

見通しがたつから時間が読める

効率的にものごとがすすむ

成功できる気がする

共同的で偶然性をもった“つくる”

面白い、楽しい

思いもしないアイデアがでる

失敗がない

生徒から出た言葉を集めると、このような印象をもったことがわかりました。みな真っ先に「楽しい!面白い!」と口にしていたこと、また「共同的で偶然性をもった“つくる”」は、これまでにやったことがない、という意見が非常に多かったのが印象的でした。

どちらが良いという話ではありません。どちらも大切で、そしてどちらも知っていて欲しい。だからこそ、今足りていない「遊びの特性」をもった学習設計を、僕は大切にしていきたいと考えているのです。これは図画工作科の話だけではありません。どの教科でも、探究学習にだって共通することです。昨今、様々な場所で行われ始めている探究学習でも、遊びの要素がなく、まず社会課題など大きなテーマが与えられ、それについて調査し「発表」という実践が多いのです。今一度、「遊び」を取り入れた活動をつくることを大切にしませんか?そうした活動を支える人、教えるでも導くでもない、その場で生成されていくことを面白がり、乗っかり、共に創っていく人としての「在り方」が求められています。