物語全体を「俯瞰した読み」で「主題」をとらえる 教材分析の 《3つの鉄則》

物語全体を「俯瞰した読み」で「主題」をとらえる 教材分析の 《3つの鉄則》

叙述に沿って読むことで読みの精度を高め、より深く読む
今回取り上げるのは、物語教材の定番中の定番「ごんぎつね」です。
7月に行ったオンラインセミナーでも本教材を扱いました。今回はその復習と補足も兼ねて整理します。
叙述に沿った読みで、子どもたちが陥りやすい「思い込み」によらない読みを実現しましょう。

  • 鉄則1 基本三部構成をとらえる
  • 鉄則2 「設定」をとらえる
  • 鉄則3 中心人物の変容から主題をとらえる

※鉄則の概要については「第1回 教材分析の《3つの鉄則》」を参照

宮沢賢治の独特の世界観が描かれた「やまなし」。「授業に困る作品」と言わることも多い教材ですが、これまでに学んできた「基本三部構成をとらえる」「設定をとらえる」「主題をとらえる」といったことを通して読んでいくことができます。

一般的に物語の基本三部構成は、

〈はじめ〉…設定
〈なか〉 …山場
〈おわり〉…結末

というとらえ方をします。
しかし、「やまなし」は「一 五月」「二 十二月」の「二枚の幻灯」を
「小さな谷川の底を写した、青い二枚の幻灯です。」
「私の幻灯は、これでおしまいであります。」
という2つの文ではさんだ、特徴的な構成(額縁構造)となっており、上記の「設定‐山場‐結末」という着眼点では3つに分けることができません。

そこで、このwebマガジンの読者には、基本三部構成をとらえる目的に立ち戻っていただきたいと思います。
教材分析のためにまず基本三部構成をとらえるのは、「物語全体を俯瞰してとらえる」ためです。
「設定‐山場‐結末」を着眼点とするのは、その手段にすぎません。それ以外の着眼点で基本三部構成をとらえ、物語全体を俯瞰してみることができるのであれば、それでいいのです。
「設定‐山場‐結末」だけにとらわれ、俯瞰することを忘れるといった本末転倒の事態に陥らないよう、注意しましょう。

さて、「やまなし」では、それぞれの部分が誰の視点で描かれているのかを読んでみると、次のようになっていることがわかります。

「小さな谷川の底を写した、青い二枚の幻灯です。」…語り手(作者・宮沢賢治)
「一 五月」…かにの子どもら
「二 十二月」…かにの子どもら
「私の幻灯は、これでおしまいであります。」…語り手(作者・宮沢賢治)

このように「視点」に着目することによって、「やまなし」の基本三部構成に次のようにとらえることができます。

〈はじめ〉小さな谷川の底を写した、青い二枚の幻灯です。
〈なか〉 一 五月  二 十二月
〈おわり〉私の幻灯は、これでおしまいであります。

〈はじめ〉・〈おわり〉と〈なか〉とでは視点が異なり、しかも〈はじめ〉・〈おわり〉は作者である宮沢賢治の視点であるという特徴的な構成が、物語の主題とどう関係しているのかを意識しながら、鉄則2、鉄則3へと進んでいきましょう。

「設定」としてあまり意識されないのが物語の「語り手」です。
「語り手」が寄り添っている人物(視点人物)が誰なのかということも、「設定」の要素の一つです。
「やまなし」では、一般的な意味での「設定」にあたることはほとんど示されていません。
ただ、〈おわり〉で「私の幻灯は……」と述べられています。この部分は会話文ではなく地の文ですので、「私」は「語り手」のことです。
したがって、この物語は、語り手である「私」が、2枚の幻灯を示すことで何かを伝えようとする物語であることがわかります。
〈はじめ〉に描かれていることだけが「設定」だ――と硬直的に考えるのではなく、「設定」につながる要素が〈はじめ〉以外の部分で描かれているケースもあることを知っておいていただければと思います。

さて、ここで気になるのが、語り手である「私」とはいったい誰なのかということです。

この作品は、作者である宮沢賢治独特の世界観が描かれており、「私(語り手)=作者(宮沢賢治)」だと言っていいでしょう。
「やまなし」を通して表現されていることは、作者・宮沢賢治の考えや願いなのです。

ただし、いつでも、どんな作品でも「語り手=作者」というわけではありません。
登場人物の一人が語り手になるなど、「語り手」が作者ではない物語もあります。
だからこそ、「語り手=作者」であることも、この作品の大きな特徴なのです。

このことから、次のような読みの方向をもつことができます。

「二枚の幻灯」には、作者「宮沢賢治」のどんな思いや願い・考えが込められているのでしょうか?

この読みの方向が、作品の主題をとらえることにつながっていきます。

〈なか〉の二枚の幻灯では、視点は「かにの子どもら」に寄り添っていますので、中心人物は「かにの子どもら」だととらえられます。
また、二枚の幻灯を並列させる構造になっていることから、「五月の幻灯」と「十二月の幻灯」が対比的に描かれていると考えられます。
それぞれの幻灯に描かれている「かにの子どもら」の様子の比較からそれぞれのテーマをとらえ、さらにそれらを比較することから物語の主題にせまります。

《「一 五月」の幻灯のテーマ》

「一 五月」では、「クラムボン」が「魚」に食べられ、その魚は「かわせみ」に食べられるという食物連鎖が描かれています。
この世界を見ている「かにの子どもら」が「こわいよ……」とくり返すことで、「恐怖」が強調されています。
このことから、「一 五月」のテーマは

命を奪われる死

であるととらえられます。

《「二 十二月」の幻灯のテーマ》

「やまなし」が落ちてくる音「トブン。」から、「やまなし」が熟して、自然に落ちてきたことをとらえます。
やまなしの実が熟して落ちることも「死」の一種と言えます。
しかし、「一 五月」でのクラムボンや魚のような「命を奪われる死」ではなく、しっかり熟すまで生き続けることができた「全うした死」です。
このことから「二 十二月」のテーマは

命を全うした死

であるととらえられます。

《「一 五月」と「二 十二月」を比較する》

「一 五月」で「かにの子どもら」は死を恐れていました。
一方「二 十二月」では「ああ、いいにおいだな。」「やまなしのいいにおいでいっぱいでした。」「もう二日ばかり待つとね、ひとりでにおいしいお酒ができるから。」などと喜びが表現されています。
このほかにも、以下のような表現から、「一 五月」の世界と「二 十二月」の世界を比較することができます。

「一 五月」
・青光りのまるでぎらぎらする鉄砲だまのようなものが、いきなり飛びこんできました。
・……魚の白い腹がぎらっと光って一ぺんひるがえり、……
「二 十二月」
・……きらきらっと黄金のぶちが光りました。
・……波は、いよいよ青白いほのおをゆらゆらと上げました。それはまた、金剛石の粉をはいているようでした。

これらのことから、作者が描こうとした主題を次のようにとらえることができます。

「命を奪われる死」は人に怖さや恐怖を与えるが、「命を全うした死」は人に喜びや幸せを与える。

「やまなし」の主題は「『命を奪われる死』は人に怖さや恐怖を与えるが、『命を全うした死』は人に喜びや幸せを与える。」であるととらえることができました。
では、この物語を通して作者である宮沢賢治が描こうとした「願い」は何だったのでしょうか。
ここで、題名に立ち戻ってみましょう。
題名は命を全うした「やまなし」です。
このことから賢治は「死の恐怖」ではなく、「全うした死のすばらしさ」を描こうとしたのではないかと私はとらえています。

「一 五月」「二 十二月」に描かれた内容ばかり深く読み進めるのではなく、最初と最後の一文も含めて物語全体をとらえることにより、「やまなし」で描かれている作者・宮沢賢治の強い願いをとらえることができます。
「やまなし」の学習を通して、「視点」をとらえることや、物語全体をとらえる「俯瞰した読み」の大切さを伝えることができると考えています。