「出会い」をつくり「縁」が起きる場を構成する大切な3つの要素ヒト・モノ・コト。
「モノ編」として空間、道具、材料、そして「コト編」としてVIVISTOP NITOBEでの活動について紹介してきました。
空間をつくり、その中に材料や道具を置いただけでは、何も起きません。やはり「コト」を起こしていき、「縁」を結んでいくには「ヒト」がとても重要になってきます。今回は「ヒト」に視点を移して、紹介していきます。
自分ごと化して楽しむ
僕の立ち振る舞いについては、この連載でお伝えしてきたことが全てです。連載の機会をいただき、自分の無意識的な行動や思考をできるだけ言語化してきました。
- 自由=自分に理由がある 状態でいること
- 答えはないから、教えるではなく一緒に考える・悩む
- その場で生成されていくことを面白がり、変化していくことに向き合う在り方
- 「編む」ことを通じて発信していくこと
教員になる前の、仕事でのエピソードです。僕には前任者から引き継いだ仕事がありました。前任者は「楽しいでしょう?」とニコニコ伝えてくれるのですが、正直僕は全く面白くありません。仕事として、やらされている状態です。
引き継いだ内容を複製するだけのところから、自分のやりたいことを反映させていくことで、少しずつ自分ごと化できて、「楽しいかも!?」と感じるまでには2年以上かかりました。
元同僚には「楽しいと思えたのは、もう辞める(教員に転職する)と決めていたからだろう?」と冗談半分に言われたこともありますが……
その時の「嫌だと思っていたことも楽しくなる(かもしれない)」という経験から得た学びは僕の中で、大きなものでした。
子どもたちから学び自由になる
仕事柄、「地域にクリエイティブ空間をつくりたい」、「必要だ」という声を聴くことが多いです。ただ、その声を発している人が中にいない場合は、誰かに場の運営を託すことになります。その託された人が、いかに“自由になれるか”がポイントです。そのためには場の運営スキルを積み上げていく。勉強していくというよりもむしろ、本来あったはずものを取り戻すことが大事なのです。
その手段こそ、「『図工の授業』が一番いいのでは!?」と思っています。図工的なマインドをもったワークショップを開催し、子どもたちの感性を全面で受け止めて、自由な子どもたちに学び、大人も自由になっていく。 この連載が、そんな人たちへの一助になればいいなと思っています。
さてそんな中、VIVISTOPを運営しながら気になったことがあります。
それが「サポーター」という存在とその必要性です。
必要なのは何かをつくる「ヒト」
嬉しくも「サポーターとして関わりますよ!」という声をよくいただくのですが、実はしっくりきていません。サポーターの目的は、誰かをサポートすることです。そのサポートすべき相手が現れれば、めでたくコトが起き、何かが進みそうです。ですが、必ずしもサポートが必要な人ばかりが来るわけでもありません。
来場者としても、「サポーターです」とその場に居た人が、何をサポートしてくれるのか分からないので、関わる最初の一歩が遠そうです。
そうなると、サポーター側は「サポートしようと思ってきたけど、結構暇だね」なんて日もあるでしょう。サポートする対象がいないので目的を失うわけです。
これでは来場者にとっても、運営する僕にとっても、またサポーターのその人にとってもアンハッピーな状況が生まれてしまいます。
僕はこれを避けたいと思っています。サポートを目的とする人ではなく、来場する人と同じく「何かをつくるヒト」であることが望ましいのではないかと思っています。
エンジニアとか、デザイナーとか、木工好きです!とか、プログラミング得意です!とか、編集者です、とか。強みがあればあるほど、わかりやすい。
でも、来場者よりも「オープンなマインドをもち、人と関わり、コミュニケーションを楽しめるヒト」という要素は必須になります。
優秀なエンジニアがそこにいてくれても、コーディングに全集中していて話しかけ難かったら、それはちょっと違う。このバランスが本当に難しいのですが……
その「ヒト」が何かをつくりに来ていても、誰かの相談で、自分の思っていたことは進まないこともあります。でも、反対にこの場に来なきゃ起きないこともあるのです。
「あのー、これちょっと相談させてほしいのですけど」 「いいよ!じゃあさ、そのあと僕のこの件も少し相談させて」
こんな交換のやりとりが理想です。
足りないからこそ助けを求められる
この“交換”はサポーターとは起きません。サポーターは、支援することが目的なのですから。つまり、今僕が携わっているような場にサポーターは不要じゃないか、というのが僕の結論です。来場者と特に区別ができない、ひとりの作り手(でもオープンマインドをもった「ヒト」)クリエイターとして、この場にいてくれたらいいな、と思っています。
では僕はクリエイターかというと……
僕には相当なコンプレックスがいくつもあります。かっこいいデザインはできないし、頭に浮かんだイメージ通りに描くこともできません。3Dモデリングはまだまだ初心者レベルだし、構造を考える頭もなければ計算もできません。細かい作業や電子工作は苦手です。プログラミングはできないし、英語もできません。クリエイティブ空間の運営者として、のらりくらりと振る舞っていますが、こんなコンプレックスを挙げればキリがありません。
なので、正直まだまだ自分がクリエイターであるという自負は持てそうにないです。
でも、だからこそ僕の足りなさを補ってくれる仲間に助けを求められるのです。
「助けて!」と言えることは恥ずかしいことではありません。様々な強みを持つ多くの仲間によって、僕も、この場も生かされているのです。
そして、その仲間は大人に限った話ではありません。子どもたちだって、僕を助けてくれる大事な仲間です。そうして仲間と学び合い、僕も日々少しずつ成長し続けています。
例えば、レーザー加工ができるようになったり、3Dプリンターも少しだけ使えるようになったりしました。
成長が実感できるのは嬉しいものです。そしてまた同じように成長を実感している子どもたちと「俺ら、結構できるようになったよなぁ」と喜びを共有するのです。
学校で機能するには
学校ではこれがなかなか起きにくい。大人(先生)と子ども(生徒)には、同じ位置に立てない絶対的な何かがあります。それは評価だったり、文化だったり、あるいはもっと他にもあるかもしれません。
だからこそ、学校の中に学校じゃない場所があって、先生ではない「ヒト」が行き来する。
こういう場所の価値が高まり、もっと広がることを願っています。
危機管理や安全管理、超えなければいけない障壁は少なくないのですが、僕はいつかそういう環境や場所がスタンダードになればいいと思っています。
そういう場ができて、学校の中でうまく機能してくれれば、先生は先生のままでいいのです。ティーチャー、ファシリテーター、ジェネレーターとこの連載でも紹介してきましたが、その他にもたくさん! 先生の役割は多すぎるのです。
「一人が何役もこなすことなく、先生が変わるのではなく、先生は先生のままの強みをもった個性・特性で子どもたちと関われたらいいのに」というのが僕の理想です。 先生もいっそ「先生」という肩書きを捨てて、新しく名乗ってみたら面白そうです。そうなったら僕は「面白がり屋」とでも肩書きをつけて立ち振る舞いたいと妄想しています。