「求める」のではなく「取りのぞく」

「求める」のではなく「取りのぞく」 - 東洋館出版社

不登校を経て世界を飛び回るフォトジャーナリストとなった佐藤慧さんが多感な子どもたちに綴った読み物、10分後に世界が広がる手紙シリーズ全3巻(小社刊)。ここでは、学校という場のかけがえのなさや、不安・窮屈さを感じている思春期の心に向き合う5話を、Edupia連載として再編集しました。
第1回は、連載開始にあたっての書き下ろし。かつて子どもだったみなさんへ同作にこめた思いを綴ります。

みなさん、はじめまして。認定NPO法人ダイアローグフォーピープル代表の佐藤慧です。フォトジャーナリストとして、日本国内や、世界各地のさまざまな社会問題の取材、発信を行っています。昨年刊行した『10分後に自分の世界が広がる手紙』シリーズでは、毎日がなんとなくつまらないと感じている君や、「大人」のイメージがつかめなくてもやもやしているあなた、学校や勉強がきらいな、昔の僕のような子どもたちに向けて、手紙をつづるように、それぞれのストーリーを書きました。

今あらためて読み返してみると、もしかしたらそれは、僕自身に向けた手紙でもあったのかもしれないと感じます。よく泣いていた幼い自分、学校がきらいで、近所の公園で夕方まで本を読んでいた自分、突然のわかれに、世界が怖くなってしまった自分。でも、そんな自分に向けて語りかけていくと、大人になった自分が忘れてしまっていた、世界の美しさや、素晴らしさにもまた気づくことになりました。
雨上がりの空にかかる虹のふしぎ、さまざまな虫のかなでる音色のみりょく、ともだちとつくった秘密基地でかんじた自由――そんな記憶のかなたの景色が、次々とよみがえってきたのです。

世界のあちこちで取材をしていると、ときどき人間という生きものが、とてもおろかに思えてくることがあります。なぜ人は、殺し合うのでしょうか。なぜ人は、災害の教訓をすぐに忘れてしまうのでしょうか。なぜ人は、国がちがうというだけで、苦しんでいる人を助けることができないのでしょうか。

いろんな理由があると思いますが、ひとつの大きな原因は、大人になるにつれ、世界のふしぎや美しさをかんじる感覚や、ふれたことのないものに思いをよせる想像力が、失われていくからではないかと、僕は思います。
失われていく、という言葉は間違いかもしれません。本当は誰もが、そうした感覚や想像力を持っているのに、歳をかさねるごとに、「重たいもの」が増えていって、感覚がにぶっていってしまうのです。「男の子なんだから、泣いてはいけない」「女の子らしくしなさい」「みんなと違うことをしてはいけない」「こんな髪型はゆるされません」「受験に失敗したら、たいへんなことになるぞ」「しあわせになるには、競争に勝たなければならない」……。そんな、数えきれないほどの「重たいもの」が、おさないころには持っていた、ほがらかで自由なコンパスを、押しつぶしてしまってはいないでしょうか。

なにかを学ぶということは、とても素晴らしいことです。それは、これまで生きてきた人々から、知恵や経験をうけつぐということでもあり、同じ時代に生きる、ほかの人々のことを想像する道具を手に入れることでもあります。それに、人はたとえ間違いをおかしても、そこから学び、成長していくことができるのです。
けれどそうした学びの場が、「重たいもの」にみちていたらどうでしょうか。せっかくの知恵や経験は、テストのために覚える記号となってしまい、せっかくの道具も、人を助けるためではなく、競争に勝つための武器になってしまわないでしょうか。あまりに失敗をおそれる態度は、自分の間違いをみとめずに、ごまかす態度につながっていくかもしれません。

もしかしたら今の大人は、誰もがそうした「重たいもの」に押しつぶされそうになっているのかもしれません。だからこそ、「重たいもの」に押しつぶされないようにと、子どもたちに、より多くを求めるのかもしれません。
けれど本当に必要なのは、子どもたちに求めることではなく、そうした「重たいもの」を取りのぞいていくことではないでしょうか。一人ひとりの子どもたちが持つ(そして、本当は大人も持っている)、奇跡のような感覚や想像力を、のびのびと育んでいける場をつくっていくこと、それが大人の役割なのではないかと思います。

世界の美しさに気づいたら、戦争のおろかさにも気づくでしょう。大切な人を思うことができたら、災害の教訓も大切につたえていくでしょう。会ったことのない人の痛みを想像できたら、きっと国をこえて人は助け合えるでしょう。
自分の中にいる「小さな僕」は、今でもそう語りかけてきます。