24回に渡る連載で、創造力とは何か?どのように伸ばすことができるのか、そのヒントを山内先生からお聞きしてきました。その最後の鍵は「プロトタイピング」にありそうです。つくって試して考えて、またつくる。その過程で他者と影響し合いながら、アップデートを繰り返していく。その中に、誰しもがもっている創造性が潜んでいる。子どもだけではなく、大人にこそ大切なことだと山内先生は言います。
教わっていない教え子
この原稿を書いているちょうどその頃、中学や高校の卒業時期で、多くの教え子から「卒業しました!」とか「進学先決まりました!」などの連絡をもらいました。もう小学校を卒業して何年も経つのに、僕は担任の先生でもないのに、こうして連絡をもらえるなんて幸せ者だなあとひとつひとつのメッセージに、目を潤ませながら読んでいました。
さて、こんな出来事を人に伝える時、どうしても「教え子」という言葉を使わざるを得ないのですが、実は「教え子」という言葉がずっとしっくりきていません。そう表現しなくていい時には極力使わないように「小学校の図画工作を一緒に過ごした子たち」とか「○○○○年の卒業生」など無理やり代替してみるのですが、どうも回りくどくなってしまいます。そんな訳で結局「教え子」という言葉に頼るのですが、本心はいつもそんな心持ちなのです。
僕が「教え子」という言葉にしっくりこないのは、子どもたちに教えた気がしないからです。卒業式で親御さんから「先生にご指導いただいて……」という言葉をいただきますが、これもいつも(指導かぁ、してないんだよなぁ……)と申し訳ない気持ちで受け取っていました。
2022年夏に、高校生になった教え子(結局ここでも“教え子”を使います。笑)と対談をする企画を実施しました。その際、教え子本人が「山内先生からクリエイティビティを教わったという感覚はない」とずばり言ってくれました。
もやもや相談室 VIVISTOP NITOBE編
これは核心的でありその通りなのです。なぜならば、僕自身がクリエイティビティを教えようと思ったことも、育もうと思ったこともないからです。
では僕は子どもたちに何を学ばせ、何を教えていたのでしょうか。この連載のタイトルでもある「創造力を高める学びの場」とは何なのでしょうか。最終回は改めてこの部分に焦点をあてていきます。
何を教えていたのか
連載第17回でも紹介したVIVIWARE Cell®︎というプロトタイピングツールを体験してもらう授業を実施していた時に、中学2年生の生徒が嫌味なく自然と「これやって何の意味があるのだろう」と呟いていたのです。この言葉を聞いて、はっとしました。
僕自身のキャリアは以前お伝えした通り、美術やデザインなどとは無縁でした。僕も小学生、中高校生の時、図工美術は嫌いではなかったけど、「何のためにやっているのだろう?」という疑問を常に感じていた気がします。むしろ「休み時間」とか「遊びの時間」と並ぶ、学校における息抜きのような時間という認識でした。
図工美術の価値を認識して取り組んでいた記憶はありません。大人になった僕は、図工の先生になってはじめてこの価値を知ることができたのです。それも「図工美術の価値」ではなく「図工美術を手段とした学びの価値」です。
僕が子どもたちに教えていることがあるとすれば、連載第8回でも書いたとおり、ただ「図工美術には意味があるよ、価値があるよ」ではなく、正解のない世の中で、手を使って考える、共に創り共に学ぶという姿勢にいかに意味があるか、価値があるかということです。
僕たちは、生きていく中で様々な目標・目的を定めます。もしくは他者から定められます。例えば「○○大学合格!」「体重マイナス10kg!」「英語を話せるようになる!」など。自分で決めようが、他者から決められようが、自分が目的を達成したいとなれば、まずは目的に対する自分の現在地を把握して、課題を見つけ(もしくは課題も示されて)具体的な計画を立て、効率良く、できることなら最短距離で、目的が達成できる手段を選んでいきます。
この行為や考え方は、年齢的には小学校入学あたりから、どんどん強化されていきます。テストだったり、発表だったり、目的を達成するために効率的で計画的な実行力みたいなものを、とにかく練習しているのです。それは学校だけでなく、多くの習い事も同じです。
ところが、僕のつくってきた図工の時間、ワークショップは、はっきりと、これではないのです。(もちろん授業は学習指導要領に準拠していますが!) 美しい丁寧な作品をつくることが目的でもなく、子どもたちにも高尚な目的を掲げていません。
図工の時間・ワークショップともに、どういうものをつくるか(=目的らしきもの)は子どもたち自身が決めなくてはいけない。目的らしきものが、子どもの数だけ存在します。それだから、効率的で計画的な手順を誰も知りません。だったら、どうすれば良いのか。それは試していく他ありません。とにかくつくって試して考えて、またつくる。その過程で他者と影響し合いながら、アップデートを繰り返していくのです。「作品をつくる」という目的・目標から逆算したら、全くもって非効率ですし、一度たてた計画をまた立て直すことも珍しくないかもしれません。
これは無駄な行為、意味のないものなのでしょうか。図工の時間もワークショップも、効率よく計画的に、最短距離で、美しいものができた方に価値があるのでしょうか。
僕はそれには反対です。
現代社会を生きていく上で、効率的で計画的な実行力みたいなものを練習、強化していく機会は避けて通れませんし、それも大切な力です。しかし、敢えて図工美術やワークショップでも、それを強化させる必要があるのでしょうか。
とにかくつくって試して考えて、またつくる。その過程で他者と影響し合いながら、アップデートを繰り返していく。これがとっても得意なのは、小学生よりもっと前の、幼い子どもたちです。手探りで、様々なものに触れ、考え、習得していくのです。誰しもが通ってきた道、誰しもが発揮してきた力です。
何を学ばせているのか
僕が子どもたちに何を学ばせているのか。
あえて、その答えをつくるならば、僕は「学ばせるのではなく、誰しもがもっている力を忘れないようにしている」のだと考えています。
好奇心に素直に従うこと、くだらないことを笑い合えること、これがどんなに尊いことでしょうか。冒頭紹介した「これやって何の意味があるのだろう」と呟いた生徒にも、「目的のために一直線に進む方法もあるけど、正解のない時代には、無駄だと思うようなことを楽しむ力を忘れないことも大切だと思う」と伝えたら、大きく頷いて納得してくれました。(実際に、その子は好奇心に素直に従うこと、くだらないことを笑い合えることが充分にできていました)
無駄だと思うこと、非効率で意味のなさそうなこと、そこに一生懸命に向き合えば、そんな中から世界をひっくり返すようなアイデアが生まれるかもしれない。世界は変えられると思うし、世界を変えるには、目的のために一直線には進めないのです。
プロトタイピングという手法
とにかくつくって試して考えて、またつくる。その過程で他者と影響し合いながら、アップデートを繰り返していく。この手順に、ぴったりな言葉と出会いました。それが「プロトタイピング」です。作品をつくるわけではなく、試作(プロトタイプ)をつくる。肩の力を抜いて、くだらなさを全肯定して、手を動かして、みんなで考える。
今僕が仕事をしているVIVISTOP NITOBEとはまさにプロトタイピングをする場でもあるといえます。
そして、もしかしたら僕の図工の時間もこれまでにつくってきたワークショップも、プロトタイピングの時間だったのかもしれません。子どもたちにとって、その瞬間に生まれた自分の大切な作品ですが、その子の人生を俯瞰して捉えるならば、小学校時代に生み出した数々の作品は、その子自身を生成するための数々の試作と捉えられるでしょう。
そして、ここでひとつ強調しなくてはならないことがあります。それは、僕は子どもに「学ばせたい」と思ったことはないということです。僕はいつも「一緒に学びたい」のです。大人も子どもも一緒になって、忘れないようにする、もしくは取り戻せるようにしているのです。
これは子どもにとって大事なだけではなく、むしろ大人にこそ大事なことなのです。
僕が大変大きな影響を受けた佐宗邦威さん、その著書『直感と論理をつなぐ思考法』(ダイヤモンド社刊)でも、プロトタイピングは登場します。
小さな子どもの粘土遊びを横で見ていると気づくことだが、彼らは明確なプランなどないまま手を動かし、そのプロセスのなかでアウトプットに修正を加えていく。最初は「粘土で『おうち』をつくっているの」と言っていても、最終的には「くるま」や「ゾウさん」が出来上がることも珍しくない。わかりやすく言えば、彼らは「手で考えている」のだ。実際、デザイン思考のモットーの1つに「BuildtoThink(考えるためにつくる)」というものがある。まず手を動かしてみて、そのなかで発想を刺激し、新しいものをつくりあげていく——これは芸術家やクラフトマンの世界で経験則的に磨きあげられてきた方法論だ。マサチューセッツ工科大学(MIT)教育学部教授だったシーモア・パパートは、これを構築主義(Constructionism)という学習モデルに落とし込んでいる。
構築主義の核心は、緻密な計画に先立って、まず不完全なアウトプットを行い、それを起点に対話・内省を促していくということにある。このような試作品のことをデザイン思考の世界では「プロトタイプ」、そしてそうやって試作品をつくる行為を「プロトタイピング」と呼ぶ。佐宗 邦威著『直感と論理をつなぐ思考法 』(ダイヤモンド社)
パパートが提唱した「構築主義」の学習モデル
このサイクルこそ、僕が図画工作という時間をつかって、子どもたちとつくってきた時間そのものだ!と衝撃を受けました。
佐宗さんの本は図工の本ではありません。しかし共通するポイントである、図工の時間や考え方、その制作プロセス、学びの価値が、図工美術教育のみに限定するものではなく、多くの人に必要とされるものであると示してくれています。
本来誰もがもっている創造性
今、正解のない世の中で必要とされる創造力/創造性。それは、誰かから与えられたり、教わったりするものではありません。つくって試して考えて、またつくる。その過程で他者と影響し合いながら、アップデートを繰り返していく。その中に、誰しもがもっている創造性が潜んでいるのです。
本来誰もがもっているものを忘れないように、忘れてしまっていたなら取り戻すようにする。僕自身も同じです。放っておいたら忘れてしまうので、様々な人と出会い刺激をもらい、何かを一緒につくることで、忘れないようにしているのです。
「創造 creative」という言葉が大切にされている時代です。「創造性教育」という言葉もあるように創造をどう教育していくのか、という話題も至るところで見聞きします。
僕は、「創造 creative」は大人が子どもに教育できるものではないと考えています。難しいことはさておき、一緒につくりましょう。手を動かしましょう。上手下手はありません。失敗も成功もとりあえず置いておいて、アイデアを形にしてみましょう。まずは試作でいいのですから。
大人も格好悪くていいじゃないですか。出来ない姿を見せましょう。それでも一生懸命に向き合う姿を見せましょう。何でもうまくいく、知識豊富な大人の姿よりも、きっと子どもに伝わることは多いのではないでしょうか。
僕はこういうことができる場をつくりたい。そして僕もそんな場に身を置いて、色々な人と、わははと笑いながら、一生懸命にあらゆる試作をつくり続けていきたいのです。
「創造力を高める学びの場」
こうしたタイトルをいただいて1年間、これまで自分がやってきたことを全て棚卸しして、今の自分と向き合うことができました。
最終回、なんとなくタイトルにつながる答えらしきものに辿り着けてホッとしています。
でも、きっとこれも試作にすぎません。来年はまた違うことを考えているかもしれませんし、10年後は「こんなこと書いていたの!?」なんて恥ずかしく思うかもしれません。 それでも、一緒懸命向き合った結果して、わははと笑えたらいいなと願っています。
読んで下さった方、コメントをいただいた方、本当にありがとうございました。またアドバイスをいただいたり、監修いただいたり、多くの方にも協力いただきました。本当にありがとうございました。最後に、この機会をいただいた東洋館出版社の皆様に感謝を込めて、連載を終わりにします。
ありがとうございました!