前編では、ICTによって子ども一人ひとりの学びが可視化されることに着目し、ただそこにあるだけでは深まらない学びについて議論してきました。中編では、そうした学びの広がりの中で、国語の授業がどう変わっていくべきかを考えていきます。
座談会出席者(写真上段左から)
沼田拓弥 東京都・小学校教員。『「立体型板書」の国語授業:10のバリエーション』(小社)の出版を皮切りに、板書を軸とする国語授業づくりを提案している。
伊藤怜香 新潟県・小学校教員。ICT活用のハード面の課題や授業づくりについて共有した。
岡雅昭兵庫県・小学校教員。特別支援教育での経験も生かし、ICTと子どもの学びやすさについて実践例を紹介する。
猪岡養子 秋田県・小学校教員。ICT活用でも求められる教師の大切な力量について意見をあげた。
遊免大輝 大阪府・小学校教員。「立体型板書」研究会事務局長を務める。座談会では聞き役として、さまざまな話題を引き出した。
ICTと国語の学びの今
沼田先生:「立体型板書」研究会でも、ICTを組み合わせた実践がどんどん出てきていると感じています。今回は、先生方がどのように感じながらICTと板書を使い分け、住み分けをしているかを伺いながら、それぞれの役割を考えてみたいと思います。
まず、先生方が板書や一人一台端末を使う目的や使い分け、実際に使いながら感じていることをお伺いしたいと思います。
伊藤先生:タブレットが手元にある、手元で見られるというのは大きいと思います。
一昨年、2回目の育休明けにタブレットを使いはじめました。当時は、クラスの児童数が多く、教室がぎゅうぎゅう詰めでした。そのため、資料、特にセンテンスカードを準備して貼ったときに、座席や視力の関係で、貼ったものが見えづらい子が出ました。特に移動型板書をしたいときには、黒板に書いて、消して、移動して…とするよりは、センテンスカードを用意して移動した方がやりやすいので、センテンスカードをよく作りますよね。でもそうすると、見えない子がいる。
そこで、ロイロノート for school(以下.ロイロノート)でセンテンスカードと同じような「テキストカード」を作っておいて、子どもたちがタブレットでそれを見られるようにしておきました。今も、何かを書く活動よりは、みんなに掲示物が見やすいように使うことの方が、国語では多い気がします。
沼田先生:なるほど。岡先生はどうですか。
岡先生:正直、ICTは使いこなせていない方だと思うのですが、この1学期にICTを一番使った単元は、「新聞を作ろう」(光村図書・4年)です。以前、ICTはすぐ消して書き直せるので、作文のときに有効だという話を聞いていたんです。私の経験でも、消しゴムで消して、書き直して……という作業で意欲がなくなってしまう子が多かったので、新聞を作らせるときにICTを取り入れてみようと考えました。
まず、私が教科書にある例示と似た見本をロイロノートで作り、それをベースの見本として子どもたちに配りました。そして、「これを自由に動かしていいから、最低限この要素を載せて自分なりの新聞を作ろう」と伝えました。あとは、記事をサイトで検索して探して、コピーや貼りつけの方法を教えると、書くのが苦手な子も新聞として仕上げていけました。一から作文するのが苦手な子でも、完成度がとても高いものができて、自分の持っている力以上のものができたような感覚が生まれて、自信がついたようだったので、有効だったなと感じました。
沼田先生:資料提示と操作性ですね。黒板を使う場合、子どもに前に出てきてもらい、「ちょっとやってみて」とお願いするようなことは今まででもありましたが、ICTだとそれが目の前でできますね。
岡先生:そうですね。
沼田先生:可能性を感じますね。
低学年の学びを深めるICT
猪岡先生:教科書に印を付けて読んでいく活動を、大型テレビに映して行うことがあります。それから、子どもたち一人ひとりがタブレットを持っていますので、例えば「おむすびころりん」でグループになって劇をしているときに、グループの誰か1人がカメラマンになってそれを映して、みんなで上映して見合うという使い方もありますね。
「はなのみち」(光村図書・1年)の学習では、板書をカメラで撮って配信し、そこに自分の振り返りを書く、または頑張ったところに丸をつけるという使い方もしました。こうすることで、1年生なりに学びの振り返りを行うことができました。そのときに、グループで問いを考える活動を行い、思考ツールをタブレットに配信して、そこにグループで書き込む活動もしてみました(第12回)。
「くちばし」(光村図書・1年)では、よく「くちばしクイズ」をつくると思います。くちばしの先端を大きく写したものや、全体を写したものを用意して行うと思うのですが、そのクイズを、ICTを使って行う方法もありますね。拡大して撮る、くちばしだけ撮る、そしてそれに問いの文を書く。次のページを出す、そして大きな全体像を映す、そして「これは○○の鳥です」と書く、というふうに、ICTを使ってクイズを行いました。
遊免先生:私からも、実践事例をご紹介します。説明文の学習(「いろいろなふね」東京書籍1年)では、授業後の見取りのために確認読みを個別化し、SKYMENU(スカイメニュー)とタブレットを活用しました。確認読みの後、説明文の文章に情報を添加し、「図鑑に書いてある文章を入れても良いか、良くないか」と評価読みを行いました。対比型の板書を活用して、子どもたちの思考を深め、筆者の意図に迫ることができました。
沼田先生:先生方のお話を聞いていると、一人一台端末が入ったことによって学習のバリエーションがだいぶ広がっているなと感じました。情報収集もすごく簡単にできるようになったし、いろいろな情報を調べられる。低学年でも、音声入力を使えばタイピングができなくても情報を集めたりはできますよね。
ICTを使う強みのひとつは、やはり共有ですね。一瞬で画面上にみんなの意見が見られるのは大きいです。それに対して、板書は思考の整理をしたり、仕掛けとして使ったりして、一斉にみんなで見ることで学びが生まれていく側面があります。その点をこの研究会でも深めてきたので、それらをうまくつないでいくと、ICTも板書もさらに力を発揮してくるのかなと思います。
「ただそこにある」だけでは学びは深まらない
沼田先生:いま話題に出た「共有」について、さらに掘り下げていきたいと思います。共有という点では、ICTによって全員が見える。しかし、「果たして、それはほんとうにいいことなのかな。」と感じることもあります。デメリットもあるのかどうかが気になります。SKYMENU、ロイロノートやミライシードなどのアプリケーションを使えば、子どもたちの考えや書いたものが、全員分ババッと画面に出ますよね。岡先生はそこに対して、どんなことを思っているか、教えていただけますか?
岡先生:「共有」が、誰が何を書いているか見えるようにすることを指すとします。他の子の考えを羅列した文章を画面上で子どもたちに「共有」しても、それがあまり子どもたちに入っていかないように感じました。
共有するとき、言い換えると交流するときには、交流という手段の目的を、私はやはり学級づくりの方に置きたいと考えています。実際に面と向かって言葉を交わし、相手の表情を見て対話をする経験が、授業で学級をつくることにもつながると思います。そういう意味では、画面上で共有するよりも、やはり直接言葉を交わすほうが、共有あるいは交流は有効なのかなと思いました。そもそも、この二つはイコールではないかもしれませんが。
さきほど、「新聞を作ろう」単元の話をしました。この単元では、完成した新聞をロイロノートで提出させ、全員が見られるように共有したんです。「他の人の新聞も見られるよ」と伝えたのですが、誰がどんな新聞を作ったか、気にするそぶりはそこまで見られなかったんですね。それと同時に、私がプリントアウトして黒板に全員分の新聞を貼ったんです。そうすると、「この子はこんなの作ったんだ!」と、みんなすごい勢いで見に来て。
「だからICTは悪い」ということではないんです。ただ、ICTを使って共有するにも工夫が必要なんだなと感じた出来事でした。共有ボタンを押したらみんな見る、ではないのだな、と。もっと有効に使える人はいるのだろうな、勉強しなければいけないな、という反省点がありました。
沼田先生:そういう共有がとても簡単にできるようになった一方で、果たしてそれは子ども自身の興味や関心をくすぐるものになっているかどうかというのは気になりますね。黒板に貼ったら、子どもたちがダーッと見に来るというのは、私もよく分かります。あれは不思議ですよね。伊藤先生はそういう経験はありますか?
伊藤先生:分かります。例えば、それこそタブレットで授業の振り返りを打ち込んで、ロイロノートで提出してもらったときに、「本当だったらみんなの振り返りを聞きたいけれど、時間もぎりぎりだからロイロノートで「共有」しておくね」と伝えることがたまにあります。中学年の段階だと、子どもたちが結構気にするのは、自分の仲のいい子が何を書いているかですね。 ギャングエイジとも呼ばれるような、子どもたちの発達段階も影響しているとは思います。教師が見てほしいところではなくて、まず彼らの中にある友達関係が優先されるところがあります。
あとは、教師の側が「この子の意見に注目してほしい」「この子は結構いい視点で見ているな」と思って紹介してみても、子どもたちの目はその子ではなく、画面に行っているんですね。その子の話をもう少し聞いてほしいなと思っても、目線がどうしても上がってこない。
その一方で、ノートを持ち運んで毎日毎日確認するのはなかなか手間なので、振り返りをICTで提出してもらって、それで学びの深まり方がある程度見取れるのは、すごくありがたいのですが。そういうこともあって、最近は授業の振り返りの共有はあまりしていません。
ICTの「共有」で見えること、見えないこと
伊藤先生:それこそWhich型の発問を用いたときに、ロイロノートのテキストカードは色を選べるので、それを利用して共有することはします。「Aだと思う人はピンクのテキストカード、Bだと思う人は青のテキストカード、迷っている人は黄色のテキストカードで、何もテキストも打ち込まずに色カードだけ送って」と伝えると、スケーリング型板書に近い形での共有になるんですね。板書でやるときほどきれいに配列はされていないですが、色のバランスが見えると、「Aが多いかも」「Bが多いかも」「迷っている人は意外にいるな」「だいたい半々ぐらいに割れたな」という具合に、パッとその場で見えるんですね。
新学期でまだクラスが落ち着かない時時などは、スケーリング型板書でネームカードを貼りに来て席に戻るまでに、少し時間がかかりました。「授業の導入でここまで時間をかけたくないな…」というときには、黒板に貼りに来させるのではなくて、ロイロノートで色カードをパッと送ってもらうとスムーズでした。
ただ、それだけだと、その色カードに隠れている理由や考えまではその場ではそんなに見られないので、その後、ちゃんと対話というか交流に入っていくのがよさそうです。さきほどの岡先生の、「「共有」と「交流」はイコールではない」という視点で言えば、「共有」は色だけ、会話で「交流」していく方が、しっくり来る場合もあるなと感じています。
沼田先生:そこも面白いですね。先ほどもあったように、子どもたちの書いたものを全員が見えるようにすると、全部が同じ度合い、つまり軽重が付かずに全員の書いたものが平等に共有されますよね。さきほど伊藤先生もおっしゃったように、教師として注目してほしいところがあるときには、うまく軽重を付けて示せることが板書の強みなのかなと思いました。板書の場合は、その場で教師が文字を大きく書いたり、色を付けたり、マーキングしたりしながら共有できるよさがあるので、子どもたちに注目してほしいときには板書を使うのも、共有の仕方としては大事なのかもしれません。
伊藤先生:ロイロノートも、特定の子の書いたものだけを選んで、それだけを画面配信して子どものタブレットに出すこともできるので、全くできないわけではないんです。でも、私自身が、三十何人分のカードが一堂に示されたときに、その場で「はい、ではこの子の意見を共有しよう」とすぐ見取るのがなかなか大変なときもあります。つまり、出た意見のバランスや全体感を、「この子とこの子の意見が一緒で、この子とこの子は違って、だいたい何パターンぐらい出たかな…」というふうに即座に見取るのは、こちら側としてもなかなか大変だな、と。それができていないと、その後の交流もなかなか広がらないのが難しいところですね。ある程度子どもたちで交流させてもいいのですが、それは子どもたち自身に交流の力がついていないと難しいこともありますよね。
沼田先生:なるほど。どこまでを子どもたちと共有するかで、「共有」の価値も変わってきそうです。さっき伊藤先生が出された、色カードで立場だけを共有するのか、その先にある理由や根拠も全部共有してしまうのか。
画面上に文字がブワーっと出てきても、きっとあまり読む気にはならないですね。だからいったんは立場だけを画面で共有して、誰がどういう立場なのかはつかんで、その先は直接顔を突き合わせて、なぜその色にしたのかとか、「交流」していくことが子どもたちの学びをより良いものにできそうですね。
教師による意味付けで「共有」が生きる
沼田先生:ここまで聞いていて、「交流」のきっかけとしての「共有」という使い方ができそうだと思いました。猪岡先生、この辺の話題についてはどうですか。
猪岡先生:私も、学習の最初の方で、子ども同士のずれを生むために「共有」するという感覚は、とてもよく分かります。一方で、今までだったらなかなか自分から発信できなかったり教師から見えづらかったりした少数派意見をもつ人たちが、必ず色カードや記号などで意見表明をしてくれるので、教師には全員が見えてしまう。だから、それをうまく使う教師の力が必要だと感じました。少ない方の意見から持っていくのか、多い方の意見から持っていくのか、そのほかにいろいろな持っていき方があると思いますが、全ての子どもが明らかになってしまうから、明らかになったぶん、どう使うかという教師の力量が必要で、そこでキーになるのが「共有」なんじゃないかと感じました。
また、振り返りを共有するというのは、文字情報がたくさんありますよね。そうすると、もし「自由に見てください」と言ったら、好きな子や気になる子に優先的に目がいくのだと思います。でも、そこで教師が意図的に意味づけをしたり仕掛けたりすれば、子どもはその意図で振り返りを見ると思います。子どもがその気になる仕掛けを教師がどうつくっていくかもとても大事だなと思いました。
沼田先生:私はこの1学期にタブレットで振り返りの共有を行ったのですが、そのときは完全にICTで行うのではなく、タブレットでフォームに打ち込んでもらった感想を、名前だけ消して印刷して子どもたちに渡す方法を取りました。そうすると、誰が書いたかよりも、振り返り自体にちゃんと注目しながら読むことができたように思います。必然的に言葉に注目することになるんですね。そういうふうに、匿名にするというのも一つの仕掛けかもしれませんね。
伊藤先生:ロイロノートだと、共有するときに無記名にもできるんですよね。
沼田先生:なるほど。それでやってもいいかもしれないですね。
伊藤先生:タイピングが苦手で直書きする子だと、字の癖で誰が書いたか分かるときもありますが、タイピングオンリーだったら、この機能でできますね。
猪岡先生:アイデアをひとつ。子どもが言葉に注目するための工夫です。例えば、「自分と同じ考えの人が何人いるか見つけよう」「いちばん多い数の考えはどれだろう」などの声掛けです。先生がこう声をかけると、子どもたちは全員の書いたものを読みながら、自分と同じ内容を探しますよね。そうして探し終えたら、他の子のも気になって見ると思います。 あるいは、いちばん多い意見を探すときも、やはり全員の書いたものを見ながら、言葉に注目しますよね。 何を問いかけて、何を見せるかにかかっているように思います。これは小さい学年での例ですが。
沼田先生:話を聞いていると、共有するときに、ただ「はい、見なさい」と見せるだけでなくて、意図をもって発問とセットで共有すると、より効果が発揮されそうですね。私が出版した『書かない板書』の中でもこのあたりについては「板書しかけワード」として提案しています。
《中編に続く》
〈参考文献〉
沼田拓弥(2020)『「立体型板書」の国語授業』東洋館出版社
桂聖(2018)『「Which型課題」の国語授業』東洋館出版社
沼田拓弥(2021)『「立体型板書」でつくる国語の授業 文学』東洋館出版社
沼田拓弥(2021)『「立体型板書」でつくる国語の授業 説明文』東洋館出版社
沼田拓弥(2022)『書かない板書』東洋館出版社